リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:PL 宮村優子・Ayumi/DL 雪城眞尋「#あゆみやシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=7Hvur1zdm_8
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
サヤ
十六歳を名乗る、芸歴の長いアイドル。昭和の芸能界にも妙に詳しく、噂の芸能神社を巡る動画で百万再生を狙うと意気込む。
スズリ
礼儀正しく、外の世界をまだよく知らない少女。YouTubeを神様のようなものだと受け取り、山で皆に温かいお茶を出せるよう急須まで持参する。
モモ
母の応募をきっかけにアイドルになった、穏やかな少女。サヤの勢いある発言へ現実的な一言を返しつつ、スズリには分かりやすく説明する三人の調整役。
第一章動画で見る#
古いバスが山道のカーブへ差しかかるたび、吊り革が一斉に傾いた。窓の外では杉の幹が後ろへ流れ、谷側の視界が開く一瞬だけ、遠い町並みが青い霞の底に見えた。
乗客は、運転手を除けば三人だけだった。売り出し中のアイドルであるサヤ、スズリ、モモは、空いた座席へ荷物を広げ、回しっぱなしのカメラへ顔を寄せている。
サヤがレンズへ人差し指を向けた。
「今日の企画は、『売れないアイドル三人組で、知る人ぞ知る芸能神社へ行ってみた』です!」
モモは笑いながらも、企画名の一部へ引っかかった。
「自分たちで売れないって言うの、ちょっとへこむね」
「でも、話題になれば絶対に売れるよ。目指せ、百万円――じゃなくて、百万再生!」
「百万再生は、さすがに大きく出たね」
二人が笑う隣で、スズリだけが申し訳なさそうに手を上げた。
「あの、YouTubeとは何でしょうか」
サヤは勢いよく振り返り、危うく座席からずり落ちかけた。
「スズリちゃん、YouTube知らないの?」
「YouTubeにお願いしたら、何とかなるのでしょうか。でしたら、私も頑張ってお願いを」
「そういう神様じゃないよ。テレビが小さくなって、携帯電話で見られるようなもの……かな」
モモが補うと、サヤは何度もうなずいた。
「そう、スマホで見るやつ。若い人はスマホって言うんだよ」
「サヤちゃんも若いでしょう」
「そうだよ。サヤ、十六歳だからね」
モモは一拍置き、それ以上は追及しないことにした。
「それで今日は、ネットで噂になっていた芸能神社を探すんだよね」
「本当に御利益があれば三人が売れる。違っても動画の撮れ高になる。完璧な企画でしょ」
スズリは膝の上の大きな鞄を抱え直した。中で硬い物同士が触れ、小さく音を立てる。
「必要になるかもしれない物は、いろいろ持ってまいりました。和菓子と、温かいお茶と」
「すごい荷物だね。四次元ポケットみたい」
「いつでもお申しつけください」
「ありがとう。スズリちゃんがいれば、何があっても大丈夫そう」
その時、バスが大きく揺れた。スズリは鞄を両腕で守り、青ざめる。
「お気をつけください。急須が入っておりますので」
「急須を山へ持ってきたの?」
「お茶には必要かと思いまして」
「この世には便利な水筒という物があるんだよ」
「思いつきませんでした。ですが、お湯はペットボトルに入れてあります」
取り出されたボトルの中で、透明な液体が揺れた。モモは目を丸くする。
「本当に白湯だ。準備がいいのか、ずれてるのか、どっちなんだろう」
「知らないことは、これから知っていけばいいんだよ。昭和アイドルのこととかね」
「昭和だけじゃなくて、平成と令和のアイドルも教えてあげようね」
スズリは二人の顔を見比べ、うれしそうに頭を下げた。
バスが古びた停留所へ滑り込んだ。三人が降り立つと、舗装路の熱と、木々の間を抜けてきた冷たい風が同時に頬へ触れる。時刻表によれば、次の便は二時間後。その次は、さらに二時間後だった。
「このバスを逃したら、大変だね」
「山頂まで行って帰ってくれば、ちょうど二時間ぐらいじゃない?」
「撮れ高ができたら途中で帰る手もあるよ。たとえば、イノシシが出て、サヤが倒すとか」
モモはカメラを下ろし、真顔で首を振った。
「そんなに身体を張る予定じゃないよ。今日は神社へ行くのが目的でしょう」
「もちろん神社へは行くよ。イノシシが出たら、倒してからね。その間もカメラは止めないで」
「人が登る山なら、出ないと思います。出ないでいただきたいです」
三人は笑い、参道へ足を踏み入れた。
石段の高さは揃わず、湿った土が靴底へまとわりついた。最初は先頭を歩いていたスズリだったが、大荷物が肩へ食い込むにつれ、少しずつ遅れ始める。
サヤが鞄の片側を持ち上げた。
「ほら、半分持つよ。サヤは力だけはあるから」
「ありがとうございます。急須がありますので、揺らさないようお願いいたします」
「急須への信頼が重いなあ」
息が上がるたび、三人はアイドルになった経緯を話した。
スズリは、アイドルというものさえよく知らない時に声をかけられたという。有名になれると聞き、迷った末に誘いを受けた。
モモは、母が勝手にオーディションへ応募したのが始まりだった。
サヤは胸を張る。
「サヤはオーディションも受けたし、この業界が長いから。年下のプロデューサーだって知ってるよ」
「サヤさんは十六歳なのでは?」
「十六歳より年下のプロデューサーも、まあ、いるんだよ。ピンクのセーターを肩へ掛けるような人がね」
モモは笑いをこらえながら、さりげなく話題を変えた。
「私は十八歳。年齢は違っても、同じグループの仲間だから、気にせず仲良くしてね」
「もちろんです。よろしくお願いいたします」
「よし、帰ったらサインの練習をしよう」
「山の中でしなくていいの?」
「落ちている枝で葉っぱに書けば、紙代が浮くでしょ」
「サヤちゃん、自然派というより節約家なんだね」
「売れないうちは、節約も大事。だけど、この三人は絶対に売れるよ」
サヤの言葉に、モモは照れたように笑い、スズリはまっすぐうなずいた。
「三人組なら、リボンよりも売れるかもしれない」
「リボンって、今お母さんが頭につけている物?」
「違う、昔のアイドルグループ。若い人は知らないかあ」
「サヤちゃんと私たち、そんなに年は変わらないよね」
「そうだよ。何度も言うけど十六歳だから」
モモが十八歳だと答えると、スズリも自分の年齢を告げた。最初は互いに遠慮があった三人も、山道を一緒に歩くうち、年上も年下も関係なくなっていく。
「業界には変わった人がたくさんいるよ。勉強しない人とか、絶対に靴下を履かない人とか」
「靴下を履かないことが、業界では重要なのでしょうか」
「重要じゃないよ。サヤちゃんの知り合いが個性的なだけだと思う」
「でも、何でも聞いて。昭和のアイドルなら任せて」
「心強いです。では、ピンク・レディーとキャンディーズからお願いいたします」
スズリが真剣に頼むと、サヤは教師のように背筋を伸ばした。モモは二人の間で笑いながら、撮影用のカメラを持ち直した。
木々が円く退き、苔むした小さな空地が現れた。その中央に、風雨で色を失った祠が一つだけ建っている。鳥の声まで遠ざかったような、不自然な静けさがそこに溜まっていた。
「あれが芸能神社かな。思っていたより小さいね」
「鳥居もありません。本当に神社なのでしょうか」
「ネットの噂だから、誰かが話を大きくしたのかもしれない。でも、せっかく来たんだ。確かめよう」
第二章動画で見る#
祠の戸は、わずかに開いていた。昼間なのに内部は暗く、乾いた木と湿った土の匂いが混じっている。
「開いていて大丈夫なのかな。中に何かいたりして」
「ウリ坊が寝ているかもしれないよ。赤ちゃんのイノシシね」
「では、先ほどの計画どおり、サヤさんが」
「赤ちゃんは倒さないよ」
モモがスマートフォンのライトを点け、サヤへ渡した。
「まず、隙間から照らしてみよう。サヤちゃん、お願いしていい?」
「任せて」
光が祠の奥をなぞり、一枚の札を浮かび上がらせた。紙は端から崩れ、墨の文字もほとんど読めない。
「御神体じゃなくて、お札が貼ってある」
「芸能の神様を祀る場所に、お札というのは不思議です。何かを封じているのでしょうか」
「誰かがサインの練習をした可能性は?」
「サヤちゃん、それはたぶんないよ」
三人は札へ触れず、戸を元どおり閉めた。何の神を祀る場所かは分からない。それでも、休ませてもらった礼を兼ねて供え物を置くことにした。
スズリが鞄を開くと、急須、白湯、和菓子が次々に現れた。サヤが目を輝かせる。
「神様も大喜びの本格セットだね」
「サヤはお賽銭を置こう。ご縁があるように、五円玉で」
「こちらへお茶と和菓子をお供えいたします」
三人は並んで手を合わせた。
モモは、三人が無事に山へ登り、下りてこられるよう願った。
サヤは、山頂で百万再生を取れるほどの出来事が起きるよう願った。
スズリは、三人で立派なアイドルになれるよう願った。
「願い事は、具体的なビジョンを持った方がいいんだよ」
「サヤちゃんのは、ずいぶん具体的だったね」
「三人で立派なアイドルになれますように。それなら、私も同じ願いにする」
「ありがとうございます。きっと叶います」
サヤはカメラの録画表示を確認した。
「ここもずっと撮れてる。使えるところだけ、あとで切り取ればいいよ」
祠を離れて少し登ると、参道の脇に洞窟が口を開けていた。入口から冷気が流れ、汗ばんだ首筋を撫でる。奥は数歩先で暗闇に沈み、何があるか見通せない。
「クマがいるかもしれない」
「サヤちゃん、本当に見に行くの?」
「撮れ高のためだからね。モモちゃん、カメラを回してて。スズリちゃんは、クマ役をお願い」
「私がクマ役でよろしいのでしょうか」
スズリは両手を胸の前へ上げ、遠慮がちに唸った。迫力より上品さが勝っている。
「がお、がお」
「それなら余裕で倒せそう」
サヤが抱きつくように組みつくと、スズリの細い声が洞窟へ響いた。
「痛いです、痛いです、サヤさん」
「ごめん! 思わず力が入った」
「スズリちゃん、大丈夫?」
「しばらく、クマ役は結構です」
笑いが収まってから、サヤはスマートフォンを掲げ、洞窟へ入った。だが奥行きは浅く、すぐに岩壁へ行き当たる。獣も薬草も、目を引くものは何もなかった。
「本当に何もない。雨宿りには使えそうだけど」
「何もなくても、リアクションしなきゃ立派なアイドルにはなれないか」
「身体を張ることに命を懸けすぎだよ」
「昔は水泳大会みたいな仕事もあったんだよ」
「最近のコンプライアンスでは、難しいのではないでしょうか」
「コンプラは、おいしいのでしょうか」
「それは天ぷらと間違えてるよ」
三人の笑い声を追うように、洞窟の冷気が背後から流れてきた。
山頂へ出ると、視界が一気に開けた。山並みの向こうで町が霞み、風が草の穂を同じ方向へ伏せていく。目的の神社は見当たらなかったが、登ってきた時間を肯定するには十分な景色だった。
「綺麗。神社は、やっぱりなかったね」
「先ほどの祠が噂の根源だったのでしょうか」
「でも、クマの寸劇は撮れたし、動画にはなるよ」
スズリが敷物を広げ、鞄から弁当を取り出した。和食、中華、サンドイッチが箱ごとに分かれ、三人分とは思えない量が並んでいく。
「十八種類ほど、店員さんに勧められた物を一つずつ買ってまいりました」
「全部、デパ地下で?」
「お恥ずかしながら」
「恥ずかしがる量じゃないよ。レストランを持ってきたみたい」
サヤは大きなカツを箸で持ち上げた。
「アイドルらしく、いただきマンモス!」
「いただきマンモス?」
「昭和のアイドルには必要な挨拶だよ」
モモが半信半疑で唱え、スズリも丁寧に続いた。三人で声を揃えると、妙な言葉でも掛け声らしく聞こえる。
「サンドイッチもおいしい。スズリちゃんは、和食と中華のどっちを食べる?」
「私はどちらでも構いません。ある物は、すべておいしくいただきます」
「全部は無理じゃないかな。私たち、食べすぎたら衣装が入らなくなるよ」
「残りは冷蔵庫へ入れて、明日食べればいいよ」
サヤが当然のように言うと、モモは山へ持ち歩いた時間を指折り数えた。
「ずっと外へ出していた物を、明日食べるのは危なくない?」
「そうか。それは、当たり前田のクラッカーだね」
「クラッカーも十八種類の中にございますか」
「スズリちゃん、今のは食べ物の注文じゃなくて、昔の言い回しだよ」
サヤは笑いながら、もう一つカツを取った。
「じゃあ、山を下りるまでに少しずつ食べよう。食べて動けば大丈夫」
「食べてすぐ走ると、お腹が痛くなるよ。来た時と同じ速さで、ゆっくり帰ろう」
「それでしたら、荷物が軽くなるよう、もう少し召し上がってください」
「スズリちゃんは食べないの?」
「緊張して、あまり喉を通りませんでした。ですが、お二人が食べる姿を見られたので満足です」
「私たちだけ食べて、ごめんね」
「とんでもございません。帰りの荷物が軽くなりますから」
どこか噛み合わない返事に、三人はまた笑った。
食べきれない分をどうするか話し合いながら、サヤは何度も箸を伸ばした。スズリは緊張であまり喉を通らなかったらしく、二人が食べる姿を満足そうに見守っている。
「一人暮らしなら、サヤちゃんが持って帰る?」
「まだまだ食べられるよ。食べた分は、下山で消費すればいい」
「では、帰りはクマのように歩きましょう。のし、のし、と」
三人は肩を揺らす奇妙な歩き方で山を下った。それを『クマダンス』と名づけ、デビュー曲に使えるかもしれないと笑い合う。
帰りのバスへ乗り込むころには、窓の外が傾いた日差しに染まっていた。規則的な振動が疲労を眠気へ変えていく。
「また三人で来ようね。今度は、人気アイドルになってから」
「その時は、ちゃんとした芸能神社へ行きましょう」
「クマダンスも完成させないとね」
サヤの笑い声へ重なるように、鋭いブレーキ音が車内を切り裂いた。
第三章動画で見る#
「立派なアイドルになれますように」
祈りを終えて顔を上げたサヤは、耳の奥に残るブレーキ音と、目の前の祠とを結びつけられずにいた。
山頂で食べたはずの弁当は開けられていない。供えたはずの和菓子もスズリの鞄へ戻り、木漏れ日の角度まで、最初に祈った直後と同じだった。帰りのバスで身体を投げ出された感覚だけが、ひどく生々しい。
「お祈り、終わったよ」
何事もなかったように言うモモの声が、サヤには割れた音のように聞こえた。隣ではスズリも青ざめ、サヤへ目で問いかけている。
「モモちゃん。クマダンスは?」
「クマダンスって何?」
「のし、のし、と歩く、あれです。先ほどまで三人でしていたではありませんか」
スズリが肩を揺らしてみせても、モモは首を傾げるだけだった。
「二人で、私が知らない間に考えたの?」
「じゃあ、今日ここまでどうやって来た?」
「二人とバスに乗って、山を登ってきたよ。今から山頂へ行こうって話だったでしょう」
「山頂で弁当とサンドイッチを食べたことは?」
「まだ山頂へ行ってないのに、どうやって食べるの?」
サヤとスズリは顔を見合わせた。帰りのバスまで覚えているのは二人だけで、モモの時間は祈りの直後に巻き戻っている。
その時、サヤの胸の奥を鋭い痛みが貫いた。スズリも右足を押さえて膝をつく。見える傷はないのに、事故の瞬間だけが身体の中へ残ったようだった。
「胸が痛い……」
「私は、右足が痛みます」
「二人とも大丈夫? 今日はもう帰ろう。バス停で待っていれば、いつかバスが来るから」
モモが二人の肩を支え、三人は来た道を下り始めた。ところが、しばらく歩いた先に現れたのはバス停ではなく、先ほど通ったはずの洞窟だった。
「帰り道に、洞窟なんてあった?」
モモの問いに、サヤは撮影用のカメラを指した。
「あったよ。ここでスズリちゃんにクマをやってもらって、サヤが探検隊をやった。モモちゃんが撮ってくれたでしょう」
「撮っていたけど、データは祠へ着くまでしか残ってないよ」
画面を確かめると、本当にその先の映像だけが消えていた。クマの寸劇も、山頂の昼食も、帰りのバスもない。
「ちょっと待って。これはおかしいよね」
「ええ。おかしいのは、たぶん私たち二人です」
「今起こったことを、ありのままに話すよ。サヤとスズリちゃんにとって、この洞窟は二回目なんだ」
「二回目って、私が見逃したということ?」
「そういうことではございません。ですが、今ご説明しても、かえって混乱させてしまうかと」
「そんなことを言わないで、説明してよ」
詰め寄られて、スズリは困ったように目を伏せた。
「私とサヤさんは、少し疲れてしまったようです。お気になさらないでください」
「全然、気にしないで済む顔じゃないよ」
サヤは胸を押さえたまま、洞窟へ顔を向けた。
「さっきと同じとは限らない。中を確かめてくる。モモちゃんはカメラを回していて」
「一人で行くの? 危ないよ」
「まず安全かどうか見るだけ。何かあったら、すぐ呼ぶから」
スマートフォンの明かりを頼りに奥へ進むと、前にはなかった炎が揺れていた。目を凝らしても正体が分からず、サヤは入口へ声を張る。
「スズリちゃん、ちょっと来て。何か燃えてるんだけど、最近、老眼が始まってさ」
「サヤさんは十六歳では?」
「近眼の言い間違い。とにかく見て」
三人で近づくと、それは割れたランプだった。漏れた油へ火が移り、その横には、車から剥ぎ取られたようなヘッドライトだけが転がっている。灯りは岩肌へ、左右対称の大きな影を映していた。
「なんで洞窟に車のライトがあるんだろう。さっきは、こんなのなかったよね」
「ありませんでした。大変、不気味です」
モモは影を見上げた。
「私には、大きな鎌を上げたカマキリみたいに見える」
「クワガタにも見えなくはないかな」
「私は、人が助けを求めて、こちらへ来ているように見えます」
「怖いことを言うね。スズリちゃん、霊感があるの?」
「少しだけ、見えることがございます」
サヤの表情が一瞬だけ明るくなった。
「それはアイドルとして、すごい素質だよ。オカルト番組へ呼ばれても、ちゃんと対応できる」
「変なものまで連れて帰ってしまうかもしれません」
「そこは気をつけよう。撮れ高より大事なものもあるから」
モモは、揺れる影が左右同じ形に開いていることへ気づいた。
「ロールシャッハ・テストって、二人は知ってる?」
「名前は聞いたことがあるような」
「紙へインクを落として二つ折りにすると、左右対称の染みができるでしょう。それが何に見えるかを答えるテスト。私も専門家じゃないから、結果までは分からないけど、この影を見て思い出したの」
「モモちゃんもいいね。自分の感性で答えられるのは、バラエティ番組へ呼ばれた時に役立つよ」
「怖い場所でも、結局そこへ結びつけるんだね」
「だって、私たちは売れっ子アイドルになって、いろんな番組に呼ばれるんだもん。オカルト番組はスズリちゃん、バラエティ番組はモモちゃん。身体を張る水泳大会はサヤが頑張る」
「最近のコンプライアンスでは、難しいんじゃなかった?」
「その時は、その時考える」
恐怖を薄めるように三人が笑った。その直後、声ではない言葉が頭蓋の内側へ流れ込んだ。
――時間が来れば、影は実体を取り戻す。
モモが瞬きをした。
次の瞬間、三人は祠の前へ戻っていた。サヤとスズリの胸の痛みは消え、今度は二人とも左足が痛んだ。モモは、また何も知らない顔で祈りを終える。
「二人とも、足が痛いの?」
「小旅行の疲れかな」
「小旅行で、二人同時に同じ場所は痛めないでしょう」
スズリは、モモへ祠の戸を開けてもらった。中の札は元どおり貼られている。読めない文字も、墨の染みも、最初と変わらない。
「何か気になったの?」
「変なことが起きていないか、確かめたかっただけです。お気になさらず」
サヤはスズリを祠の陰へ連れていった。
「どうすればいいんだ。下っても洞窟へ戻るし、洞窟であの声を聞いたら、ここへ戻った」
「私にも分かりません。きっかけも、解決する方法も」
「『時間が来れば、影は実体を取り戻す』。影って、あの洞窟の影だよね」
「おそらくは。ですが、確かめられることが少なすぎます」
モモが心配そうに二人を覗き込んだ。
「下っても駄目なら、山頂へ登ってみる? 足の痛みが紛れるように、ちょっとした心理テストでもしながら」
山頂へ続く道を歩きながら、モモは話し始めた。
「想像してみて。気づくと、あなたは病院のベッドで、有名なバイオリン奏者と一本の管でつながれているの」
「その方は、病気なのですか」
「臓器移植が必要な患者さんで、今はあなたの身体から栄養をもらって生きている。新しいドナーが現れるのは九か月後。管を外せば奏者は死んでしまうけれど、つないだままなら、あなたは九か月間自由を失う。二人なら、どちらを選ぶ?」
サヤはしばらく考えた。
「ベッドの上で筋トレしてもいい?」
「管が外れない程度なら」
「昔のアイドルのビデオとか、VHSとか、レーザーディスクも見ていい?」
「見るだけなら、たぶん大丈夫」
「じゃあ助ける。九か月なんて、サヤがアイドルを目指してきた時間からすれば大したことないよ」
「相手が有名な人じゃなくて、全然知らない人でも?」
「困っている人がいたら助けるのが当たり前でしょう」
モモはうれしそうに笑い、今度はスズリへ向いた。
「私は、少し迷ってしまいました」
「九か月は長いから?」
「はい。早くアイドルになりたいという思いが、一瞬よぎりました。ですが、たった九か月でその方の命が助かるのでしたら、私は喜んで人生の一部をお預けします。困っている方を助けるようにという、父の教えでもありますから」
「二人とも優しいんだね」
「でも、アイドルでいられる時間は短いって言うから、焦る気持ちも分かるよ」
「大丈夫。毎年一歳ずつ若返ればいいんだよ」
「永遠の十六歳、ということでしょうか」
「そういう業界の先輩をいっぱい知ってるから。娘さんに年齢を追い抜かれるぐらいでも、世の中的には平気。売れたら何でもいけるよ」
「では、三人のコンセプトを『人助けアイドル』にするのはどうでしょう」
「いいね。困っている人がいたら助けます、って。レッド登場、ブルー登場、イエロー登場みたいに」
「それは、アイドルより戦隊では?」
「コンセプトは大事だよ。私たちは、人を助けたいって気持ちでつながった三人なんだから」
「人助けアイドル。素敵です」
三人の答えが重なった瞬間、また思念が流れ込んだ。
――痛みは予感だ。解決の方法は、一つしかない。
モモが瞬きをする。世界はまた祠の前へ戻った。
今度はサヤの全身が痛み、スズリの右足が痛んだ。それでもモモは、今しがた三人で決めたはずの「人助けアイドル」を知らない。
「これって、どうすればいいんだろう。上へ行っても、下へ行っても戻ってくる」
「横へ進むのは難しそうです。今は、また下りるしかないのでは」
「二人とも、そんな身体で大丈夫? 荷物は私が持つよ」
「いっそ置いていきましょう。どうせまた戻るのでしたら、無駄な気がします」
「お弁当も和菓子も入ってるんでしょう。もったいないよ」
「では、私が持ちます。持ってきたのは私ですから」
全身を痛めたサヤが片側を持ち、右足を庇うスズリがもう片側を持つ。モモはその不思議な歩き方を見て首を傾げたが、二人はもう説明をごまかす余裕もなかった。
三人は重い鞄を抱え、もう一度、バス停へ続くはずの道を下り始めた。
第四章動画で見る#
山を下っている途中、道の中央に黒い箱が現れた。
艶も継ぎ目もない正方形で、木漏れ日さえ吸い込んでいる。そこへ置かれたというより、景色の一部だけが黒く抜け落ちたように見えた。
「何、あの箱。マインクラフト?」
「サヤちゃん、マインクラフトは知ってるんだ」
「実況をやってみたかったんだよ。これも売れたら挑戦しよう」
モモにはいつもどおりの軽口に聞こえただろう。しかしサヤとスズリは、この道を前にも通っている。箱はその時にはなかった。
「誰かが置いていったのでしょうか」
「うかつに近づかない方がいいよ。バーンってなるかもしれない」
「ドカーンとなる可能性もございます」
「どちらも嫌だね。でも、箱の向こうがバス停なんだよ」
サヤは道端の小石を拾った。
「まず、これを投げてみよう」
「石を投げても、あとで拾いに近づかなければなりませんよ」
「今は箱が爆発しないか確かめる方が先。えいっ」
小石は乾いた音を立てて箱へ当たり、地面へ落ちた。何も起こらない。
「中に生き物がいる感じではなさそうですね。開けてみますか」
「どうして、そんなに開けたいの?」
「この状況を解決する手掛かりかもしれません。今のままでは、分からないことが多すぎます」
「お弁当が入っていたら、もっと荷物が増えるよ」
「その場合は置いていきましょう」
「お弁当じゃなかったら、開けるの?」
「私は、あまり気が進まないな」
モモが止めても、サヤとスズリはもう、この世界を抜ける手掛かりを見逃せなかった。スズリが箱へ耳を近づける。すると内側で雑音が弾け、その向こうから切迫した声が聞こえた。
『乗員四名のうち、一名は軽傷。三名が車内に取り残されている模様。応援を求む』
声に続いて、あの思念が三人の頭へ落ちてくる。
――ブレーキ音のあと、世界は収束する。無傷が揃ったとしても、保証はない。
モモが瞬きをした。
三人は祠の前へ戻っていた。今度はサヤの左腕と、スズリの左足が痛む。モモは何も知らない顔で祈りを終えた――はずだった。
「二人とも、大丈夫? 足が痛いなら、クマダンスができないよ」
サヤとスズリが同時に顔を上げた。
「今、何て言った?」
「何か言ったっけ。クマみたいに、のしのし歩く動きが、ぱっと浮かんだだけ」
「それがクマダンスだよ。じゃあ、人助けアイドルは?」
「知らないよ。二人で新しいコンセプトを考えたの?」
クマダンスだけを覚え、人助けアイドルは知らない。記憶の境目は、もう一定ではなかった。
スズリが慎重に尋ねる。
「モモさん。こちらへ来る時、バスに乗ったことは覚えていらっしゃいますか」
「もちろん。三人で乗ったでしょう」
サヤは、箱から聞こえた無線を反芻した。
「一人は軽傷、三人は車内に取り残されている。運転手さんを入れたら、私たちで四人だ」
「箱? 車内?」
「いや、何でもない。まず山を登ろう。ここにいても進まない」
サヤがスズリの鞄を持とうとすると、モモは眉を寄せた。
「左腕が痛いんでしょう。それに、さっきは全身が痛いって言ってたのに」
「どうして、それを知ってるの?」
モモの顔から血の気が引いた。
「私、そんなこと言ったかな」
「言いづらそうだね。モモちゃんだけが知っていることがあるなら、教えて」
「でも、二人だから言いづらいの」
「二人だから?」
「大事な仲間の二人だから。本当に話していいのか分からない。世の中には、知らない方が幸せなこともあるでしょう」
スズリは痛む足をかばいながら、モモの正面へ立った。
「幸せは、自分で決めるものです。人から幸せだ、不幸せだと言われて決まるものではありません。私は、隠し事をされているより、話してくださった方が幸せです」
「スズリちゃん……」
「三人なら、解決できることもきっとあります」
「そうだよ。これから三人で売れるアイドルになるんだから、いろんな困難が待ってる。今から一人で抱え込んでいたら、先がもたないよ」
モモは何度も息を整え、ようやく口を開いた。
「実は私、もう何百回も、この時間を繰り返してるの」
「何百回?」
「一番最初は、三人で山頂まで行って、帰りのバスへ乗った。ブレーキ音がして目を閉じ、次に開いたら、この祠の前にいた。それからずっと、ここがセーブ地点みたいになってる」
「ということは、今のモモちゃんは、最初に一緒に山へ来たモモちゃんとは違うの?」
「分からない。何百回も繰り返した私が、サヤちゃんには違う人に見えるかもしれない。でも二人も、覚えていないだけで一緒に繰り返してきた。人が入れ替わったわけではないと、私は思いたい」
「クマダンスは?」
「覚えてる」
「人助けアイドルは?」
「それも覚えてるよ。本当は記憶がないふりを続けるつもりだったのに、クマダンスを口にして失敗しちゃった」
サヤは、張り詰めた顔のまま、それでも笑った。
「よかった。じゃあ、コンセプトは続けられる」
スズリはモモの手を取った。
「お身体は痛くないのですか」
「今は大丈夫。でも、痛い時もあるよ。頭、胸、腕、足、全身。戻るたびに一か所だけ、違う場所が痛む」
「長い間、一人にさせてしまいましたね」
「二人のせいじゃないよ。私が話さなかっただけだから」
「もう一人ではありません。これからは三人で解決しましょう」
サヤもうなずいた。
「それで、どうやったら出られるの?」
モモは言いにくそうに視線を落とした。
「出る方法は分かる。でも、今は出られない。二人とも痛いでしょう」
「痛いけど、それと何が関係するの?」
「最初の記憶は、バスでブレーキ音を聞いたところまで。その直後に事故へ遭ったんだと思う。ここで痛む場所は、現実へ戻った時に負う怪我の予告なんじゃないかな」
「だから、全員がどこも痛まない回まで繰り返していたのですね」
「そう。無傷の時にこの世界を出れば、三人とも助かるかもしれない。ただ闇雲に何百回も続けていたわけじゃないの」
「痛くない回は、一度もなかった?」
「三人同時には、まだ一度も。痛みはだいたい一人一か所だから、頭、胸、両腕、両足、全身と無傷を考えると、全員揃う確率はとても低い」
スズリは指で計算し、表情を曇らせた。
「仮に九通りとして考えれば、七百二十九分の一ほどです」
「頭がいいね、スズリちゃん。クイズ番組にも出られるよ」
「ありがとうございます。ですが、かなり絶望的な数字かと」
「クイズ番組とオカルト番組とバラエティ番組、それに水泳大会。三人で出る番組が増えたんだから、こんなところで諦められないよ」
「残念だけど、何百回でも続けることは、もうできない」
空地の輪郭は薄れ、木々の端が白く滲み始めていた。
「私の経験と直感では、この世界がもつのは、あと五回くらい。そこで揃わなくても、強制的に現実へ戻されると思う」
「『時間が来れば影は実体を取り戻す』。影とは、私たちのことだったのですね」
「私もそう思う。残された五回に懸けるしかない」
「戻るきっかけは、分かるのですか」
「自然に戻されることもあるけれど、基本的には、私が繰り返そうと思って瞬きをすれば戻れる。二人が私の推測を信じてくれるなら、始めたい」
サヤは迷わず手を差し出した。
「モモちゃんを信じるよ。今度から、痛くても痛くないって嘘をつくのは禁止ね」
「分かった。三人で確かめよう」
一度目。サヤとモモに痛みがあり、スズリだけが無傷だった。
「二人が痛いなら、繰り返すしかありません」
二度目。サヤは全身、スズリとモモは胸が痛んだ。
「全員痛いなら迷わないね。早く次へ行こう」
三度目も、三人全員に痛みが残った。
「逆にすごいよ。三人とも無傷になるのと、同じくらい珍しいんじゃない?」
「珍しさを競っている場合ではありません」
残り二回となった時、モモは二人へ言った。
「次に二人が無傷で、私だけが痛くても、外へ出ると約束してほしい」
「それ、反対でも同じことを言える?」
サヤが問い返す。
「スズリちゃんとモモちゃんが無傷で、サヤだけ全身が痛くても、二人は出てくれる?」
「それは……」
「言えないなら、サヤたちにも約束させないで。この企画を言い出したのはサヤかもしれないけど、来ると決めたのは三人でしょう」
「そのとおりです。三人で売れるために動画を撮ると、三人で決めました。連帯責任です」
「YouTubeを始めようと言ったのは、誰だったっけ」
「少なくとも、YouTubeを知らなかったスズリちゃんではないね」
「ですが、三人で動画を撮ろうとは申したかもしれません」
サヤは真剣な顔で続けた。
「アイドルには連帯責任も必要だよ。みんなが売れるまでは、彼氏を作るのも禁止」
「今、そこまで決める必要ある?」
「売れて解散して、一人の女の子へ戻ってからにしよう」
「二人とも頑固なんだから」
「モモちゃんも頑固だよ。いっそ『頑固アイドル』にする?」
「人助けアイドルのままでお願いいたします」
モモは泣き笑いの顔で、次の瞬きを選んだ。
三人は祠の前へ戻った。サヤは痛くない。スズリもどこも痛まなかった。モモも笑って「大丈夫」と答えた。
けれどサヤは、モモが胸元を強く押さえていることを見逃さなかった。
「モモちゃん、本当のことを言って。胸が痛いでしょう」
「痛くない。これは、やっと出られると思って力が入っているだけ。三人が無傷になる機会なんて滅多にないんだから、今出よう」
「手が震えてる。嘘だよ」
「嘘じゃない。あと一回しか繰り返せないのに、わざわざやり直す必要なんてない」
スズリは二人の顔を見比べた。
「私は痛くありません。ですが、モモさんが痛むのであれば、最後の一回に懸けてもよいのではないでしょうか」
「本当に、あと一回で終わるんだよ」
「それでも、一人を置いたまま出ることはできません」
サヤも、モモから目を逸らさなかった。
「さっき胸が痛かったから分かる。モモちゃんは、痛い顔をしてるよ」
第五章動画で見る#
「モモちゃんが痛いなら、もう一回やろう」
「さっき自分は痛くないって言ったでしょう」
「サヤも、痛いかもしれない」
「私に合わせて嘘をつかなくていいよ」
「モモちゃんが嘘をつくなら、サヤだって嘘をつく。あと一回あるなら、三人が無傷になる可能性も、まだ残ってるでしょう」
モモは胸を押さえたまま、唇を噛んだ。
「それで後悔しないの? 今のサヤちゃんは、本当にどこも痛くないんだよ」
「サヤは、後悔しないようにここへ来てる。モモちゃんが痛いと分かっているのに出たら、身体が無傷でも、心がもっと痛くなるよ」
スズリもうなずいた。
「泣いても笑っても、次が最後なのでしょう。でしたら、三人で選んだ最後の一回にいたしましょう」
「二人とも、本当に頑固だね」
モモはとうとう諦め、胸元の手を下ろした。
「分かった。もう一回だけ繰り返そう。その次は、どんな結果でも現実へ戻る。覚悟はいい?」
「はい。参りましょう」
「今度こそ、三人で帰ろう」
最後の瞬きを選ぶ前に、サヤは拳を差し出した。
「せっかくだから、アイドルの掛け声で気合を入れようよ」
「人助けアイドルが言いそうな掛け声、何かある?」
「クマダンスもするのでしたら、『がおー』でしょうか」
「人助けとは、あまり関係ないけど、可愛いから採用」
三人は重ねた拳を高く上げた。
「私たち、人助けアイドル。絶対に売れようね。せーの――がおー!」
笑顔のまま、モモが瞬きをした。
祠。木漏れ日。まだ開けていない鞄。三人は互いの顔を見て、それぞれの身体へ意識を向けた。
「スズリちゃんは?」
「私は大丈夫です。どこも痛くありません」
「サヤちゃんは?」
サヤはしばらく呼吸を確かめ、胸へ手を当てた。
「少し、痛いかもしれない」
「やっぱり、そういうのって分かるようになるんだね」
モモは寂しそうに笑った。
「モモさんは?」
「私は……頭が痛いみたい」
三人同時の無傷は、最後まで揃わなかった。世界の端が光へ溶け始め、山も祠も黒い箱も、薄い紙へ描かれた絵のように輪郭を失っていく。
「駄目だったね。でも、スズリちゃんだけでも無傷でよかった」
「よくありません。みんな元気で帰りたかったのに」
「冷静で頭のいいスズリちゃんが元気なら、怪我をしたサヤたちを引っ張っていってくれるでしょう。クイズ番組にも出られるし」
「だから、さっき出ようって言ったんだよ。二人が痛くないうちに」
「後悔してる?」
モモに問われ、サヤは首を横へ振った。
「後悔してない。モモちゃんが痛いと分かっていたのに出ることはできなかった。出たら、ずっと心が痛かったと思う」
「サヤちゃんは、そういう子だよね。優しい、素敵なアイドルになれるよ」
「痛くても、ここから出られるなら、まだ三人ともアイドルになれる」
二人の言葉を聞いていたスズリが、祠の前へ座り込んだ。
「繰り返せないのでしたら、このまま三人で、ここにいてはいけないのでしょうか」
「それはできないよ。時間が来れば、強制的に戻されるって話したでしょう」
「嫌です。まだ三人で、お弁当も食べておりません。お茶も、和菓子も、こんなにあるのに」
スズリは鞄を抱きしめた。三人のために用意した物が、どれも一度目の昼食を知らないまま残っている。
「戻った時、スズリちゃんは心まで痛めるかもしれない。でも、サヤはアイドルになるのを諦めてないよ。どんな怪我でも、どんなことがあっても、絶対になる」
「サヤさん、本当ですか」
「本当。スズリちゃん一人じゃない」
「私も諦めない。だから、スズリちゃんは自分を責めないでね」
「三人で、立派なアイドルになるのですね」
「そう。クイズ番組と、オカルト番組と、バラエティ番組に出る。水泳大会は最近のコンプライアンスだと難しいかもしれないけど」
「スズリちゃんには、いけると思う」
「私にはできて、モモさんにはできないということですか」
「違う違う。モモちゃんにも、そういう需要があると思うよ」
「帰ったらしたいことが、いっぱいあるね」
「でしたら、ここにはいられません」
スズリは涙を拭い、二人の手を取った。
「約束いたします。どのような状況でも、アイドルになることを諦めません。お二人も、絶対に諦めないでください」
「約束」
「三人で約束しよう」
泣いても、怒っても、笑っても、もう世界は繰り返さない。三人が互いの手を握った時、視界が暗転した。
閉じた世界の向こうから、耳を裂くブレーキ音が響く。
三人は帰りのバスへ戻っていた。無茶な運転をする対向車を避けようとして、車体が大きく横へ傾く。身体が座席から投げ出され、窓ガラスが砕けた。ねじれる金属、燃え上がる炎、吹き上がる煙。互いを呼ぶ声さえ轟音へ呑まれ、遠くから近づくサイレンを最後に、意識は暗闇へ沈んだ。
次にスズリが目を開けると、白い天井が見えた。
消毒薬の匂い。カーテン越しの夕日。規則正しく鳴る医療機器。大きな事故だったにもかかわらず、スズリには目立った怪我がなかった。
隣では、サヤとモモも目を覚ましている。二人は胸や頭に怪我を負い、包帯を巻かれていたものの、後遺症は残らないという。サヤは一週間ほど、モモも二週間ほど入院すれば退院できると聞かされた。
「よかったです。お二人が、いなくなってしまうかと思いました」
スズリの震える声に、サヤは包帯を気にしながら笑った。
「サヤたち、生きてるんだよね」
「ええ。こうして三人で喋れているんだから、大丈夫」
「入院はしなきゃいけないみたいだけど、約束は守れそうだね」
「本当に、三人で帰ってこられました」
「こんな経験までしたんだから、絶対に売れるアイドルになれるよ。オカルト番組にも出られるし」
モモは病室の天井を見ながら、考えを巡らせた。
「この体験、本にもできるかもしれないね。最近はアイドルや著名人が、よく本を出しているでしょう」
「『霊界体験』みたいな題名にしたら売れるかな」
「都市伝説としては、かなり強いと思う。でも、まず本を手に取ってもらえるぐらい、有名なアイドルにならなくては」
「じゃあ、退院したらクマダンスの練習からだね」
「人助けアイドルの方も、忘れないでください」
「もちろん。掛け声も考えたよ。『えい、えい、がおー』っていうのはどう?」
「可愛いです」
「最高。もう売れる予感しかしない」
三人はベッドの間へ手を伸ばし、指先を重ねた。
「私たち、人助けアイドル。えい、えい――」
「がおー!」
夕日の差す病室へ、三人の笑い声が広がった。