リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:PL 宮村優子・Ayumi/DL 雪城眞尋「#あゆみやシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=7Hvur1zdm_8
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
サヤ
十六歳を名乗る、芸歴の長いアイドル。昭和の芸能界にも妙に詳しい。強気な冗談で仲間を引っ張りながら、三人が売れる未来を誰より具体的に思い描いている。
スズリ
外の世界をまだよく知らない、礼儀正しく献身的な少女。急須と白湯まで山へ持参するほど準備熱心で、仲間の願いを自分の願いのように大切にする。
モモ
母の応募をきっかけにアイドルになった、穏やかな調整役。サヤの勢いとスズリのずれた常識を受け止め、三人の会話を自然に一つの輪へ戻していく。
第一章#
古いバスが山道のカーブへ差しかかるたび、吊り革が一斉に傾いた。窓の外では杉の幹が後ろへ流れ、谷側の視界が開く一瞬だけ、遠い町並みが青い霞の底に見えた。
乗客は、運転手を除けば三人だけだった。売り出し中のアイドルであるサヤ、スズリ、モモは、空いた座席へ荷物を広げ、回しっぱなしのカメラへ顔を寄せている。
サヤがレンズへ人差し指を向けた。
「今日の企画は、『売れないアイドル三人組で、知る人ぞ知る芸能神社へ行ってみた』です!」
モモは笑いながらも、企画名の一部へ引っかかった。
「自分たちで売れないって言うの、ちょっとへこむね」
「でも、話題になれば絶対に売れるよ。目指せ、百万円――じゃなくて、百万再生!」
「百万再生は、さすがに大きく出たね」
二人が笑う隣で、スズリだけが申し訳なさそうに手を上げた。
「あの、YouTubeとは何でしょうか」
サヤは勢いよく振り返り、危うく座席からずり落ちかけた。
「スズリちゃん、YouTube知らないの?」
「YouTubeにお願いしたら、何とかなるのでしょうか。でしたら、私も頑張ってお願いを」
「そういう神様じゃないよ。テレビが小さくなって、携帯電話で見られるようなもの……かな」
モモが補うと、サヤは何度もうなずいた。
「そう、スマホで見るやつ。若い人はスマホって言うんだよ」
「サヤちゃんも若いでしょう」
「そうだよ。サヤ、十六歳だからね」
モモは一拍置き、それ以上は追及しないことにした。
「それで今日は、ネットで噂になっていた芸能神社を探すんだよね」
「本当に御利益があれば三人が売れる。違っても動画の撮れ高になる。完璧な企画でしょ」
スズリは膝の上の大きな鞄を抱え直した。中で硬い物同士が触れ、小さく音を立てる。
「必要になるかもしれない物は、いろいろ持ってまいりました。和菓子と、温かいお茶と」
「すごい荷物だね。四次元ポケットみたい」
「いつでもお申しつけください」
「ありがとう。スズリちゃんがいれば、何があっても大丈夫そう」
その時、バスが大きく揺れた。スズリは鞄を両腕で守り、青ざめる。
「お気をつけください。急須が入っておりますので」
「急須を山へ持ってきたの?」
「お茶には必要かと思いまして」
「この世には便利な水筒という物があるんだよ」
「思いつきませんでした。ですが、お湯はペットボトルに入れてあります」
取り出されたボトルの中で、透明な液体が揺れた。モモは目を丸くする。
「本当に白湯だ。準備がいいのか、ずれてるのか、どっちなんだろう」
「知らないことは、これから知っていけばいいんだよ。昭和アイドルのこととかね」
「昭和だけじゃなくて、平成と令和のアイドルも教えてあげようね」
スズリは二人の顔を見比べ、うれしそうに頭を下げた。
バスが古びた停留所へ滑り込んだ。三人が降り立つと、舗装路の熱と、木々の間を抜けてきた冷たい風が同時に頬へ触れる。時刻表によれば、次の便は二時間後。その次は、さらに二時間後だった。
「このバスを逃したら、大変だね」
「山頂まで行って帰ってくれば、ちょうど二時間ぐらいじゃない?」
「撮れ高ができたら途中で帰る手もあるよ。たとえば、イノシシが出て、サヤが倒すとか」
モモはカメラを下ろし、真顔で首を振った。
「そんなに身体を張る予定じゃないよ。今日は神社へ行くのが目的でしょう」
「もちろん神社へは行くよ。イノシシが出たら、倒してからね。その間もカメラは止めないで」
「人が登る山なら、出ないと思います。出ないでいただきたいです」
三人は笑い、参道へ足を踏み入れた。
石段の高さは揃わず、湿った土が靴底へまとわりついた。最初は先頭を歩いていたスズリだったが、大荷物が肩へ食い込むにつれ、少しずつ遅れ始める。
サヤが鞄の片側を持ち上げた。
「ほら、半分持つよ。サヤは力だけはあるから」
「ありがとうございます。急須がありますので、揺らさないようお願いいたします」
「急須への信頼が重いなあ」
息が上がるたび、三人はアイドルになった経緯を話した。
スズリは、アイドルというものさえよく知らない時に声をかけられたという。有名になれると聞き、迷った末に誘いを受けた。
モモは、母が勝手にオーディションへ応募したのが始まりだった。
サヤは胸を張る。
「サヤはオーディションも受けたし、この業界が長いから。年下のプロデューサーだって知ってるよ」
「サヤさんは十六歳なのでは?」
「十六歳より年下のプロデューサーも、まあ、いるんだよ。ピンクのセーターを肩へ掛けるような人がね」
モモは笑いをこらえながら、さりげなく話題を変えた。
「私は十八歳。年齢は違っても、同じグループの仲間だから、気にせず仲良くしてね」
「もちろんです。よろしくお願いいたします」
「よし、帰ったらサインの練習をしよう」
「山の中でしなくていいの?」
「落ちている枝で葉っぱに書けば、紙代が浮くでしょ」
「サヤちゃん、自然派というより節約家なんだね」
「売れないうちは、節約も大事。だけど、この三人は絶対に売れるよ」
サヤの言葉に、モモは照れたように笑い、スズリはまっすぐうなずいた。
「三人組なら、リボンよりも売れるかもしれない」
「リボンって、今お母さんが頭につけている物?」
「違う、昔のアイドルグループ。若い人は知らないかあ」
「サヤちゃんと私たち、そんなに年は変わらないよね」
「そうだよ。何度も言うけど十六歳だから」
モモが十八歳だと答えると、スズリも自分の年齢を告げた。最初は互いに遠慮があった三人も、山道を一緒に歩くうち、年上も年下も関係なくなっていく。
「業界には変わった人がたくさんいるよ。勉強しない人とか、絶対に靴下を履かない人とか」
「靴下を履かないことが、業界では重要なのでしょうか」
「重要じゃないよ。サヤちゃんの知り合いが個性的なだけだと思う」
「でも、何でも聞いて。昭和のアイドルなら任せて」
「心強いです。では、ピンク・レディーとキャンディーズからお願いいたします」
スズリが真剣に頼むと、サヤは教師のように背筋を伸ばした。モモは二人の間で笑いながら、撮影用のカメラを持ち直した。
木々が円く退き、苔むした小さな空地が現れた。その中央に、風雨で色を失った祠が一つだけ建っている。鳥の声まで遠ざかったような、不自然な静けさがそこに溜まっていた。
「あれが芸能神社かな。思っていたより小さいね」
「鳥居もありません。本当に神社なのでしょうか」
「ネットの噂だから、誰かが話を大きくしたのかもしれない。でも、せっかく来たんだ。確かめよう」
第二章#
祠の戸は、わずかに開いていた。昼間なのに内部は暗く、乾いた木と湿った土の匂いが混じっている。
「開いていて大丈夫なのかな。中に何かいたりして」
「ウリ坊が寝ているかもしれないよ。赤ちゃんのイノシシね」
「では、先ほどの計画どおり、サヤさんが」
「赤ちゃんは倒さないよ」
モモがスマートフォンのライトを点け、サヤへ渡した。
「まず、隙間から照らしてみよう。サヤちゃん、お願いしていい?」
「任せて」
光が祠の奥をなぞり、一枚の札を浮かび上がらせた。紙は端から崩れ、墨の文字もほとんど読めない。
「御神体じゃなくて、お札が貼ってある」
「芸能の神様を祀る場所に、お札というのは不思議です。何かを封じているのでしょうか」
「誰かがサインの練習をした可能性は?」
「サヤちゃん、それはたぶんないよ」
三人は札へ触れず、戸を元どおり閉めた。何の神を祀る場所かは分からない。それでも、休ませてもらった礼を兼ねて供え物を置くことにした。
スズリが鞄を開くと、急須、白湯、和菓子が次々に現れた。サヤが目を輝かせる。
「神様も大喜びの本格セットだね」
「サヤはお賽銭を置こう。ご縁があるように、五円玉で」
「こちらへお茶と和菓子をお供えいたします」
三人は並んで手を合わせた。
モモは、三人が無事に山へ登り、下りてこられるよう願った。
サヤは、山頂で百万再生を取れるほどの出来事が起きるよう願った。
スズリは、三人で立派なアイドルになれるよう願った。
「願い事は、具体的なビジョンを持った方がいいんだよ」
「サヤちゃんのは、ずいぶん具体的だったね」
「三人で立派なアイドルになれますように。それなら、私も同じ願いにする」
「ありがとうございます。きっと叶います」
サヤはカメラの録画表示を確認した。
「ここもずっと撮れてる。使えるところだけ、あとで切り取ればいいよ」
祠を離れて少し登ると、参道の脇に洞窟が口を開けていた。入口から冷気が流れ、汗ばんだ首筋を撫でる。奥は数歩先で暗闇に沈み、何があるか見通せない。
「クマがいるかもしれない」
「サヤちゃん、本当に見に行くの?」
「撮れ高のためだからね。モモちゃん、カメラを回してて。スズリちゃんは、クマ役をお願い」
「私がクマ役でよろしいのでしょうか」
スズリは両手を胸の前へ上げ、遠慮がちに唸った。迫力より上品さが勝っている。
「がお、がお」
「それなら余裕で倒せそう」
サヤが抱きつくように組みつくと、スズリの細い声が洞窟へ響いた。
「痛いです、痛いです、サヤさん」
「ごめん! 思わず力が入った」
「スズリちゃん、大丈夫?」
「しばらく、クマ役は結構です」
笑いが収まってから、サヤはスマートフォンを掲げ、洞窟へ入った。だが奥行きは浅く、すぐに岩壁へ行き当たる。獣も薬草も、目を引くものは何もなかった。
「本当に何もない。雨宿りには使えそうだけど」
「何もなくても、リアクションしなきゃ立派なアイドルにはなれないか」
「身体を張ることに命を懸けすぎだよ」
「昔は水泳大会みたいな仕事もあったんだよ」
「最近のコンプライアンスでは、難しいのではないでしょうか」
「コンプラは、おいしいのでしょうか」
「それは天ぷらと間違えてるよ」
三人の笑い声を追うように、洞窟の冷気が背後から流れてきた。
山頂へ出ると、視界が一気に開けた。山並みの向こうで町が霞み、風が草の穂を同じ方向へ伏せていく。目的の神社は見当たらなかったが、登ってきた時間を肯定するには十分な景色だった。
「綺麗。神社は、やっぱりなかったね」
「先ほどの祠が噂の根源だったのでしょうか」
「でも、クマの寸劇は撮れたし、動画にはなるよ」
スズリが敷物を広げ、鞄から弁当を取り出した。和食、中華、サンドイッチが箱ごとに分かれ、三人分とは思えない量が並んでいく。
「十八種類ほど、店員さんに勧められた物を一つずつ買ってまいりました」
「全部、デパ地下で?」
「お恥ずかしながら」
「恥ずかしがる量じゃないよ。レストランを持ってきたみたい」
サヤは大きなカツを箸で持ち上げた。
「アイドルらしく、いただきマンモス!」
「いただきマンモス?」
「昭和のアイドルには必要な挨拶だよ」
モモが半信半疑で唱え、スズリも丁寧に続いた。三人で声を揃えると、妙な言葉でも掛け声らしく聞こえる。
「サンドイッチもおいしい。スズリちゃんは、和食と中華のどっちを食べる?」
「私はどちらでも構いません。ある物は、すべておいしくいただきます」
「全部は無理じゃないかな。私たち、食べすぎたら衣装が入らなくなるよ」
「残りは冷蔵庫へ入れて、明日食べればいいよ」
サヤが当然のように言うと、モモは山へ持ち歩いた時間を指折り数えた。
「ずっと外へ出していた物を、明日食べるのは危なくない?」
「そうか。それは、当たり前田のクラッカーだね」
「クラッカーも十八種類の中にございますか」
「スズリちゃん、今のは食べ物の注文じゃなくて、昔の言い回しだよ」
サヤは笑いながら、もう一つカツを取った。
「じゃあ、山を下りるまでに少しずつ食べよう。食べて動けば大丈夫」
「食べてすぐ走ると、お腹が痛くなるよ。来た時と同じ速さで、ゆっくり帰ろう」
「それでしたら、荷物が軽くなるよう、もう少し召し上がってください」
「スズリちゃんは食べないの?」
「緊張して、あまり喉を通りませんでした。ですが、お二人が食べる姿を見られたので満足です」
「私たちだけ食べて、ごめんね」
「とんでもございません。帰りの荷物が軽くなりますから」
どこか噛み合わない返事に、三人はまた笑った。
食べきれない分をどうするか話し合いながら、サヤは何度も箸を伸ばした。スズリは緊張であまり喉を通らなかったらしく、二人が食べる姿を満足そうに見守っている。
「一人暮らしなら、サヤちゃんが持って帰る?」
「まだまだ食べられるよ。食べた分は、下山で消費すればいい」
「では、帰りはクマのように歩きましょう。のし、のし、と」
三人は肩を揺らす奇妙な歩き方で山を下った。それを『クマダンス』と名づけ、デビュー曲に使えるかもしれないと笑い合う。
帰りのバスへ乗り込むころには、窓の外が傾いた日差しに染まっていた。規則的な振動が疲労を眠気へ変えていく。
「また三人で来ようね。今度は、人気アイドルになってから」
「その時は、ちゃんとした芸能神社へ行きましょう」
「クマダンスも完成させないとね」
サヤの笑い声へ重なるように、鋭いブレーキ音が車内を切り裂いた。
第三章#
モモが目を開くと、祠の前に立っていた。
山頂で食べたはずの弁当は開けられておらず、供えたはずの和菓子も鞄へ戻っている。木漏れ日の角度まで、祈りを終えた直後と同じだった。
「立派なアイドルになれますように」
スズリがまだ手を合わせている。サヤも何事もなかったように顔を上げた。
モモは喉がひどく乾いていることに気づいた。帰りのバスも、ブレーキ音も覚えている。それなのに二人の表情には、その先の記憶がない。
サヤがモモの顔を覗き込む。
「どうしたの? 顔色が悪いよ」
「私たち、さっき山頂まで行ったよね。弁当を食べて、クマダンスをして、バスへ乗って……」
「クマダンスって何?」
「私も存じません。今から山頂へ向かうところでした」
二人の返事に、モモは言葉を失った。
歩き始めて間もなく、サヤが胸を押さえた。スズリも右足を庇うように立ち止まる。皮膚には傷一つないのに、身体の奥だけが事故の瞬間を知っているような痛みだった。
「二人とも、今日は下りよう。バス停で待っていれば、いつかバスが来るから」
来た道を戻ったはずなのに、三人は再び祠の前へ出た。道を間違えた感覚はない。試しに山頂側へ進んでも、また同じ空地へ戻ってくる。
サヤは笑ってごまかそうとしたが、口元が引きつっていた。
「今起こったことを、ありのままに話すよ。下っていたと思ったら、同じ場所へ戻っていた」
「よからぬことが起きているようです」
モモは撮影データを開いた。最初に祠へ着くまでの映像しか残っていない。洞窟のクマ役も、山頂の昼食も、帰りのバスも消えていた。
「二人には初めてでも、私には二回目なんだと思う」
「二回目って、私たちが忘れているということ?」
「分からない。でも、同じ一日を繰り返している」
サヤはモモの話を疑いながらも、彼女がクマダンスの動きを知っていることに戸惑った。
「じゃあ、これがクマダンス。のし、のし」
モモが肩を揺らして見せると、サヤの眉が跳ねた。
「それ、今ちょうど思いつきそうだった動きだ」
「前の一回では、三人でやったよ。デビュー曲に使えるかもしれないって」
スズリは、撮影データと鞄の中身を順に確認した。
「和菓子はまだあります。山頂で食べたはずのお弁当も、そのままです」
「カメラにも、祠へ着くまでしか残ってない。だとしたら、モモちゃんの記憶だけが先へ進んでるの?」
「今は、それしか分からない」
「分からないことだらけだけど、二人の具合が悪いなら帰ろう。企画はいつでも撮り直せるよ」
モモが下山を提案すると、サヤは痛む胸を隠すように腕を組んだ。スズリも足を庇いながら、大丈夫だと笑おうとした。
祠の戸を開けると、札の文字列が最初とは左右反対になっていた。読めなくても、墨の染みの位置で分かる。鏡へ映したような変化が、世界そのものの向きを疑わせた。
洞窟も変わっていた。行き止まりの岩壁の前で、割れたランプが燃えている。車体から剥ぎ取られたようなヘッドライトが転がり、その光と炎が左右対称の影を岩肌へ描いていた。
「カマキリみたい。大きな鎌を上げているように見える」
「私は、人が助けを求めてこちらへ来ているように見えます」
「怖いことを言うね。スズリちゃん、霊感があるの?」
「少しだけ、見えることがあります」
モモは影から目を離せないまま、記憶の中の図形を探した。
「ロールシャッハ・テストを知ってる? 紙へ落としたインクを二つ折りにして、左右対称の染みが何に見えるか答えるテスト」
「名前だけなら聞いたことがあるよ」
「影が左右対称だったから、思い出しただけ。私も専門家じゃないから、結果までは分からないけど」
「自分の感性で答えられるのは、バラエティ番組でも役立つよ」
恐怖の中でもアイドルの話へ戻すサヤに、モモは少しだけ救われた。
「スズリちゃんは霊感があるなら、オカルト番組で先頭に立てるね」
「変な物を連れて帰ってしまうかもしれません」
「それも含めて撮れ高だよ。サヤはクイズ番組、スズリちゃんはオカルト番組」
「モモちゃんは?」
「この影を見てロールシャッハを思い出したんだから、バラエティ番組で自分の感性を話せるよ」
「サヤちゃんは、何でもアイドルの仕事へ結びつけるね」
「三人で売れるって決めてるからね。今から役割分担は大事でしょう」
洞窟の炎が揺れるたび、三人の影も足元で伸び縮みした。明るい未来を話すほど、そこにある不気味な左右対称が濃く見えた。
その時、声ではない言葉が頭蓋の内側へ流れ込んだ。
――時間が来れば、影は実体を取り戻す。痛みは予感。解決の方法は一つしかない。
モモが瞬きをする。
次に目を開けた時、三人はまた祠の前にいた。痛む場所だけが変わっていた。
反復を重ねるうち、モモは二人の痛みを紛らわせるため、心理テストの話をした。
「想像してみて。気づくと、あなたは病院のベッドで、有名なバイオリン奏者と管でつながれているの」
「その方は、病気なのですか」
「臓器移植が必要だけど、ドナーが現れるのは九か月後。それまでつながれていれば助かる。でも、管を外せば、その人は死んでしまう」
「九か月、ベッドから動けないの?」
「そう。二人なら、どちらを選ぶ?」
サヤは少し考えたあと、ベッドの上で筋力トレーニングと昔のアイドル映像の鑑賞ができるかを尋ねた。
「レーザーディスクも見ていい?」
「管が外れない範囲なら、たぶん」
「だったら大丈夫。九か月なんて、アイドルを目指してきた時間からすれば短いよ」
「相手が有名な奏者じゃなくて、知らない人でも?」
「困っている人がいたら、助けるのが当たり前でしょ」
スズリも姿勢を正した。
「私も、その奏者の方を助けます。困っている方を助けるよう、父から教わりましたので」
「それでも、九か月で命が助かるのでしたら、私の人生の一部を喜んでお預けします」
モモは二人の答えを聞き、胸の内に温かさと痛みが同時に広がるのを感じた。
「スズリちゃんが迷ったのは、九か月が長いから?」
「はい。私は早くアイドルになりたいと、一瞬考えてしまいました」
「アイドルでいられる時間は短いって言うもんね」
「大丈夫。毎年一歳ずつ若返ればいいんだよ」
「それは、永遠の十六歳ということでしょうか」
「業界には、そういう人もいるから。売れたら何でもいける」
モモは呆れながらも、サヤらしい答えに笑った。
「三人のコンセプト、『人助けアイドル』にする?」
「いいね。困っている人がいたら助けます、って」
「ヒーローのようで素敵です」
笑い声が途切れた瞬間、思念が再び流れ込んだ。そして瞬きとともに、世界がまた巻き戻る。
第四章#
何度目かの反復で、参道の中央に黒い箱が現れた。
艶も継ぎ目もなく、周囲の明るさを吸い取っている。置かれているというより、景色に正方形の穴が穿たれたようだった。
「来る時にはなかったよね」
「近づかない方がいいと思います。爆発するかもしれません」
「バーンもドカーンも困るね。でも、この向こうがバス停なんだよ」
サヤが小石を投げた。石は箱へ当たり、乾いた音を立てて落ちる。何も起きない。
三人が距離を取りながら横を通ろうとした時、箱の内側で雑音が弾けた。
『乗員四名のうち一名は軽傷。三名が車内に取り残されている模様。応援を求む』
誰の声か分からない。だが数字だけが妙に鮮明で、帰りのバスの乗客と運転手を合わせた人数に重なった。
続いて、思念が三人の頭へ落ちてきた。
――ブレーキ音のあと、世界は収束する。無傷が揃ったとしても、保証はない。
「私たちは、帰りのバスで事故に遭ったんだと思う」
モモはようやく、考え続けていた仮説を言葉にした。
「ここで痛む場所は、事故で負う傷の予告。痛みのない時に外へ出られれば、助かる可能性が高くなる」
「だったら、三人とも痛くない回が来るまで繰り返せばいい」
「簡単なら、そうしているよ」
サヤは無線の言葉を指折り数えた。
「乗員四名。私たち三人と運転手さんで四人。一人は軽傷、三人は車内に残されてる」
「無傷ではなく、軽傷なのですね。でしたら、痛みがなくても完全に無事とは限りません」
「思念も『無傷が揃っても保証はない』って言ってた。ここで痛くないことは、助かる可能性を上げるだけなんだと思う」
「それでも、何もしないよりはいいよ。三人が痛くない回を探そう」
「もう一つ分からない。運転手さんは、どうしてこの世界にいないんだろう」
三人は箱から離れ、祠の石段へ座った。風に揺れる枝と、同じ位置へ落ちた影だけが、反復のたび変わらない。
「この山は、私たち三人にだけ与えられた場所なのかもしれません」
「事故の瞬間と現実の間。助かる結末を選ぶための待合室みたいなものかな」
「待合室にしては、ずいぶん歩かせるね」
サヤの軽口へ、モモは笑えなかった。その表情を見て、二人は彼女がまだ何か隠していると気づいた。
モモの声が沈んだ。サヤとスズリが同時に彼女を見る。
「何か知っているの?」
「二人には、ちゃんと話さないといけないことがある」
モモは胸の前で両手を握った。指先が白くなるほど力が入っている。
「最初にループへ気づいてから、私は何百回も繰り返してる。数えるのは、途中でやめた」
木々を渡る風の音だけが、三人の間へ入り込んだ。
「最初は二人を助けたかった。誰も痛くない回を待てば、三人で無事に帰れると思ってた。でも、何百回繰り返しても揃わなかった」
「ずっと、一人で覚えていたの?」
「二人は毎回忘れるから。話しても、次には初めての顔へ戻る。だから、記憶がないふりをしようと思ったこともある」
「それでも、毎回一緒に山頂まで行ったの?」
「何度も。下ったことも、登ったことも、祠を調べたこともある。横へ進めないか、道のない森へ入ったこともある。でも、全部ここへ戻った」
「箱は、前からあったのですか」
「今日――この反復で初めて現れた。だから、終わりが近いんだと思う」
「何百回も一人で考えて、それでも答えが出なかったんだね」
「ごめん。二人を巻き込んだまま、勝手に繰り返して」
サヤはモモの謝罪を遮り、肩をつかんだ。
「謝る順番が違うよ。先に、相談してくれなかったことを怒らせて」
「相談しても、忘れてしまうから」
「忘れるなら、何度でも言って。毎回、同じように三人で考えるから」
スズリも強くうなずき、モモの手へ自分の手を重ねた。
「長い間、一人にしてしまいましたね」
「モモちゃんが違う人になったなんて思わないよ。クマダンスも、人助けアイドルも、三人で考えたことに変わりはない」
サヤは努めて明るく言ったが、目には涙が溜まっていた。
反復できる回数にも限界が近づいていた。世界の輪郭が薄れ、同じ風景の端が白く滲み始めている。モモの経験では、残された試行はあとわずかだった。
三人はもう一度、瞬きを選んだ。
胸が痛む。次は全身。次はサヤの腕と、スズリの足。誰か一人が無傷でも、ほかの誰かに痛みが残る。
残り二回となった時、モモが二人へ言った。
「次に二人が無傷で、私だけに痛みがあっても、外へ出ると約束してほしい」
「それ、反対でも同じことを言える?」
サヤが問い返す。
「スズリちゃんとモモちゃんが無傷で、サヤだけ全身が痛くても、二人は出てくれる?」
「それは……」
「言えないなら、サヤたちにも約束させないで」
スズリも静かに首を横へ振った。
「ここへ来ると決めたのは三人です。連帯責任です」
「アイドルに連帯責任って必要なのかな」
「必要だよ。少なくとも、三人が売れるまではね」
「じゃあ、三人が売れるまでは、彼氏を作るのも禁止ね」
「それは今、決めること?」
「二人とも頑固なんだから」
「モモちゃんも、かなり頑固だよ。いっそ頑固アイドルにする?」
「人助けアイドルのままでお願いいたします」
モモは泣き笑いの顔になった。
三人は残された反復を一回ずつ確かめた。
最初の瞬きでは、サヤの胸とスズリの足が痛んだ。モモは無傷だった。
「二人が痛いなら、もう一度。誰か一人だけ置いていくのはなし」
次は三人とも全身が重く、息をするだけで身体の節々が軋んだ。
「これは迷わないね。早く次へ行こう」
「アイドルは、いつだって笑顔です」
スズリはそう言ったが、額には冷たい汗が浮いていた。モモがそれを拭い、サヤが二人の背を支える。
次の回では、サヤだけが痛みを訴えた。彼女はすぐに平気だと言い張ったが、モモとスズリは瞬きを選んだ。
「サヤちゃんが最初に言ったんだよ。三人で売れるって」
「そうでした。三人のうち、一人でも欠けてはコンセプトが成立しません」
「人助けアイドルなのに、自分たちを助けられないのは格好悪いか」
「格好ではなく、約束の問題です」
反復のたび、同じ空地に疲労だけが積み重なった。けれど、今はモモ一人の記憶ではない。三人で痛みを数え、三人で次を選べることが、わずかな支えになった。
第五章#
残された反復は、あと一回。
三人は祠の前で手を取り合った。企画用の笑顔ではなく、痛みも恐怖も隠さない顔で互いを見た。
「最後まで、嘘はなしにしよう」
「三人で外へ出て、立派なアイドルになりましょう」
「クイズ番組と、オカルト番組と、バラエティ番組にも出るよ」
「水泳大会は、最近のコンプライアンスでは難しいかもしれません」
「そこは帰ってから相談しよう」
サヤが拳を前へ出す。スズリとモモも重ねた。
「私たち、人助けアイドル。絶対に売れようね」
モモが瞬きをした。
祠。木漏れ日。開けていない荷物。三人は自分の身体へ意識を向ける。
スズリには痛みがない。サヤも一度は「大丈夫」と答えた。モモも笑って、痛くないと言った。
けれど、サヤはモモが胸を押さえていることに気づいた。
「モモちゃん、痛いでしょ」
「いつもの癖だよ。やっと出られると思って、力が入ってるだけ」
「嘘。手が震えてる」
「三人が無傷になる機会なんて、もう来ないかもしれない。二人が大丈夫なら、今出た方がいい」
「サヤも痛いかもしれない」
「さっき、痛くないって言ったでしょう」
「モモちゃんが嘘をつくなら、サヤだって嘘をつくよ」
スズリが二人の間へ入り、両方の手を取った。
「私は痛くありません。ですが、お二人のどちらかが痛むのでしたら、最後の一回に懸けたいです」
「それで後悔しない?」
「一人を置いて出る方が、きっと後悔します」
モモは長く息を吐いた。何百回も一人で選び続けた顔から、ようやく力が抜ける。
「分かった。泣いても笑っても、次が最後。今度こそ、三人で帰ろう」
三人は最後の瞬きを選んだ。
次に目を開けた時、サヤとモモの身体には痛みがあった。スズリだけが無傷だった。もう繰り返すことはできない。世界の端が光へ溶け、山も祠も黒い箱も輪郭を失っていく。
「どんな怪我でも、アイドルになることを諦めないって約束して」
「約束します。お二人も、絶対に諦めないでください」
「もちろん。三人で人助けアイドルになるんだから」
閉じた世界の向こうから、ブレーキ音が聞こえた。
車体が激しく横へ傾く。身体が座席から投げ出され、窓ガラスの砕ける音と金属のねじれる音が一つの轟音へ潰れた。煙と焦げた匂いが車内を満たし、誰かが仲間の名を叫ぶ。
遠くから近づくサイレンを聞きながら、三人の意識は暗闇へ沈んだ。
次に開いた視界には、白い天井があった。
消毒薬の匂い。カーテン越しの人影。規則正しく鳴る医療機器。スズリはほぼ無傷で、サヤとモモも頭や胸に怪我を負ったものの、後遺症は残らず、二週間ほどで退院できるという。
三人は同じ病室にいた。
「お二人が、いなくなってしまうかと思いました」
スズリの声は震えていた。サヤは包帯の巻かれた頭を気にしながら笑う。
「こうして喋れてる。約束は守れそうだね」
「退院したら、クマダンスの練習から始める?」
「その前に、人助けアイドルの掛け声を決めようよ」
モモが差し出した手へ、二人も手を重ねる。
「この経験、本にできるかもしれないね。オカルト番組にも呼ばれるよ」
「まずは、本を手に取っていただけるぐらい有名にならなくては」
「じゃあ、これからも三人で頑張ろう」
夕日の差す病室へ、三人の声が重なった。
「私たち、人助けアイドル。えい、えい、えーい!」
その後、彼女たちが本当に売れっ子になったかどうかは、また別の物語である。