リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:夕陽リリ/森中花咲/雪城眞尋「#りりかざシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=5dPj-Wzly58
これから観測される結末は、いまだ確定していない。
けれどそれは、避けようのない厄難でもある。
願わくは、閉じて開いたその瞼に映る世界が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
夕陽リリ
未来から来た少女。山へ持ってきたものはスマートフォンと財布だけだが、運動神経はよい。乾いた突っ込みを入れながらも、仲間を置いていく選択はしない。
森中花咲
弁当を用意し、怪我人を支え、危険へ近づく仲間を叱る三人のまとめ役。祠を覗いた眞尋への怒りは、何度も同じ恐怖を味わったことと、彼女を失いたくない思いの裏返しでもある。
雪城眞尋
祠が開いていれば覗き、洞窟があれば進みたくなる好奇心の持ち主。反復する世界を誰より長く覚えており、リリと花咲を無傷で帰すため、数え切れないほど同じ一日を繰り返してきた。
第一章#
暖かな日が増え始めた頃、リリ、花咲、眞尋の三人はハイキングへ出かけた。
運転手のほかに乗客はいない。古いバスは細く曲がりくねった山道を登り、窓の外の緑を後ろへ流していく。カーブのたびに車体が傾き、座席へ置いた荷物がわずかに滑った。
「楽しみですね、山」
眞尋が弾んだ声を上げると、リリは窓の外を見たまま答えた。
「本当にポテトチップスの袋が膨らむのか、試したい」
花咲は目を丸くする。
「そんな標高の高いところへ行くつもりだったの? それ、ハイキングじゃなくて登山じゃない?」
「山なら全部膨らむのかと思ってた」
「山へ持っていくと、袋がぱんぱんになるやつね」
「何も分かってない人がいる。膨らむといいですね、ポテトチップス」
三人の笑い声が、がらんとした車内へ広がった。
「お菓子は、ほかにもいっぱい持ってきたんでしょう?」
「ハイキングなんだし、いっぱいあってもいいんじゃない?」
花咲がリリへ顔を向ける。
「リリさんは何を持ってきたんですか?」
「スマホと財布」
「山へ行くのに、なんで財布だけは持ってきたの」
「途中にコンビニがある山だと思ってた」
眞尋が吹き出した。
「山にコンビニを期待してる。さすが未来人」
リリは悪びれもせず、スマートフォンを軽く振った。
「これがあれば、大抵のことは何とかなると思ってた」
「電波が入らなかったら、ただの板ですよ」
「財布も、店がなかったら紙と金属だね」
花咲の指摘に、リリは窓の外へ視線を戻した。
「二人が食べ物を持ってるなら問題ない」
「最初から分けてもらう気だったんだ」
「未来では、助け合いが大事だから」
「便利な時だけ未来人になるなあ」
バスは山頂に近い、小さな停留所へ着いた。
降り立った三人を、若葉の匂いを含んだ風が迎える。道は人の手で整えられているが、周囲に建物も人影もない。時刻表によれば、次の便は二時間後。その次も、さらに二時間後だった。
「山頂まで行って帰ってくるには、ちょうどいいくらいですかね」
リリは時刻表を見上げ、眉を寄せた。
「その『ちょうど』が怖い。一本逃したら、何もない山で二時間でしょう?」
「お菓子だけで二時間、潰せるかな」
花咲は荷物を持ち直した。
「逃さないように帰ってくればいいの。ほら、登りましょう」
参道は木漏れ日の中を緩やかに延びていた。湿った土が靴底へつき、少し進むだけで街の音は聞こえなくなる。
「二人とも、普段は運動する?」
眞尋の問いに、リリは肩をすくめた。
「あまりしないけど、運動能力はある」
「運動神経がいいってこと?」
「走るのは速いよ」
花咲が興味深そうに振り返る。
「五十メートル、何秒?」
「何秒だったっけ。昔、どこかで言った気がする」
「五年くらい前に聞いたような……」
「よく覚えてるね」
リリは感心したように花咲を見た。
「短距離より、持久走のほうが得意かな。おばあちゃんの家へ行くたび、山を登らされるし」
「どんな山奥に住んでるの」
「私は逆に短距離のほうがいいな。長く走ると飽きる」
リリが一定の歩調を崩さずに言う。
「普段は運動してないのに、どうしてそんなに平気なの?」
「運動能力があるから」
「説明になってない」
「走り方を身体が知ってる。たぶん」
眞尋は一段高い石へ足を掛け、二人の後ろからついていく。
「私は病み上がりだから、置いていかないでくださいね」
「そんな状態で来たの?」
「身体は元気だったんです。体力が戻ってるかまでは確認してなかったけど」
花咲は歩調を一段落とした。
「無理になったら言って。休むから」
「優しい。さすが先輩」
「言わずに倒れたら怒るよ」
「やっぱり怖い」
話しながら歩けば、坂の苦しさもいくらか薄れる。とはいえ、立ち止まれば首筋を汗が伝い、胸の鼓動が急に近くなった。
「これくらい整備された森なら平気。でも、本格的な登山はしたことがないかも」
「私も、山登りはあんまりしたことない」
花咲が三人の服装を見回し、ため息をつく。
「ズボンで来ればよかった。全員スカートじゃない」
「虫に刺されたら、それも思い出ということで」
「そういう思い出はいらない」
やがて木々が円く退き、小さな空地が現れた。
中央には古びた祠が一つ。背後の御神木が空を覆い、鳥の声まで遠くなったような静けさが溜まっている。
「ちょっと疲れた。ここで休憩しません?」
眞尋が祠を見て腰を下ろしかけると、花咲が渋い顔をした。
「祠の前は嫌かも。誰かが頭おかしくなって、『開けてみよう』って言い出したら、ホラー映画の始まりじゃない?」
眞尋の視線が泳いだ。
「ものすごく言いにくいんですけど……開いてました」
リリと花咲が同時に振り返る。
「何してるの」
「違う。私が開けたんじゃなくて、最初から戸が開いてたんです」
「最初から開いてても、普通は覗かないでしょう」
花咲は眞尋の肩越しに祠を見た。
「こういうのって、触れた人からいなくなるんだよ」
「触れてないです。視線がたまたま中へ入っただけ」
「視線は勝手に入らない」
リリが淡々と指摘し、眞尋は助けを求めるように花咲へ向き直った。
「私を一人にしないでくださいよ」
「置いていこうとはしてない。何かあった時、逃げられる距離へいるだけ」
「それ、置いていく準備じゃないですか」
第二章#
祠の戸は、指一本ほど開いていた。昼間でも内側は暗く、乾いた木と湿った土の匂いが混じっている。
「後ろに祠があったから、開いてるなと思って覗いただけ。触ってないです」
眞尋が必死に弁明するほど、花咲の表情は険しくなった。
「ひぐらしの世界だったら、もう殺されてるよ」
「一人にしないでください。先輩後輩の仲じゃないですか」
「そういうデスゲームじゃないから」
リリは戸へ触れないよう距離を取り、隙間へ目を凝らした。
「中に何があったの?」
「お札が貼ってありました。でも、ぼろぼろで何て書いてあるか分からなかった」
「本当に触ってない?」
「祠にも札にも触ってません」
「戸を閉めるのも、やめたほうがいいかな」
リリの問いに、花咲は腕を組んだまま考えた。
「開けたのが人なら、閉めたほうがいい。でも神様が開けてたなら、勝手に閉めたら怒られそう」
「どちらを選んでも怒られる可能性がある」
「じゃあ何もしないのが正解です。私は最初からそう言ってます」
「覗いた人が言う台詞じゃない」
眞尋はまた両手を上げた。
「本当に、見ただけなんです。札を剥がしてないし、持って帰ろうともしてない」
「持って帰ったら、その場で縛るから」
「何で紐を持ってる前提なんですか」
その時点では、花咲が本当に紐を持っていることを、眞尋はまだ知らなかった。
札は古く、墨の跡も崩れている。禍々しさより、長いあいだ放置された寂しさを感じさせた。それでも花咲は腕を組み、眞尋から目を離さない。
「まだ死にたくないんだけど」
「なんで、もう死ぬ話になってるんですか」
「だったら一緒に死んでくださいよ」
「急に暴言を吐かないで」
三人の軽口はいつもどおりだったが、眞尋の背中には冷たい汗が残っていた。
怒らせてしまったものがいるなら、供え物をして謝ろう。誰からともなく、そんな話になった。
眞尋は期間限定のポテトチップスを、花咲は持ってきた食べ物の一部を取り出した。リリは財布を開き、中身を確かめる。
「五百円しか入ってない。五百円でいい?」
「気持ちを見せることが大事だから」
「ポテチと、三人分のお金。神様も困らないでしょう」
花咲は祠の前へ手を合わせた。
「何を祀ってるか分からないのに、具体的なお願いをするのも困らせそう」
「じゃあ、『開けたのは私たちじゃないです』で」
「もっとほかにないの?」
「怒らないでください」
眞尋が真剣に頭を下げる。その隣で、リリと花咲も手を合わせた。
「ごめんなさい」
「許してください」
「怒らないでください」
三人分の声が重なり、空地の静けさへ吸い込まれた。
頭を上げたあとも、眞尋だけは祠の様子をうかがっていた。
「これで大丈夫ですよね。謝ったし、供え物も三つある」
「何も起きてないんだから、最初から大丈夫だったんじゃない?」
「何も起きてない今のうちに、先へ行こう」
リリは供えられたポテトチップスを見下ろした。
「期間限定なのに、本当に置いていくんだ」
「怒られるよりはいいです」
「五百円も置いた。神様、お金に困らないね」
「神様がお金を使う店、山にあるのかな」
「未来人が期待してたコンビニとか」
三人は同時に山道を見た。当然、看板の一つもない。
「やっぱり食べ物のほうが役に立ちそう」
「じゃあ、ポテチを置いて正解ですね」
眞尋は自分を納得させ、空になった荷物の隙間を閉じた。
休憩を終え、三人は山頂へ向かった。
しばらく歩くと、参道脇の岩壁に大きな洞窟が口を開けている。数歩先で光を失う入口から、湿った冷気が流れ出していた。
「本当にちゃんと山なんだ。洞窟なんて初めて見た」
「雨が降ったら、ここで焚き火をするやつでしょう?」
花咲が呆れた目を眞尋へ向ける。
「焚き火のやり方、分かるの?」
「木と木を擦り合わせれば、たぶん」
「にわかの知識で火を起こそうとしてる」
リリは暗がりを覗いた。
「どれくらい深いんだろう。鍾乳洞くらいあるのかな」
「見に行きます? 誰が先頭で?」
「言い出した眞尋でしょう」
「私は一番後ろがいいです」
「さっき祠を覗いた人が、またそれを言う?」
結局、リリを先頭に、花咲、眞尋の順で進んだ。洞窟は意外なほど浅く、土と石のほかには何もない。
「本当にただの穴だね」
「雨が降ったら、ここへ集合ということで」
「もう来る前提なんだ」
「洞窟って、向こう側へ抜けてると思ってた」
「それはトンネルでしょう」
「自然にできたトンネルかもしれないじゃん」
リリが行き止まりの岩へ手を伸ばしかけ、寸前で止める。
「硬い岩。掘れば向こうへ出るかも」
「今から掘る気?」
「スマホと財布しかないから無理」
「やっぱり装備が何の役にも立ってない」
三人の声が狭い空洞へ反響した。入口へ戻ると、外の光が思っていた以上に明るく、湿った肌へ山の風が心地よかった。
洞窟を出て最後の坂を登ると、山頂の眺望が一気に開けた。
町は山並みの向こうに霞み、青空の下で草が風に揺れている。眞尋はその場へ座り込み、肩で息をした。
「疲れた……」
「病み上がりで山へ登るから」
「身体は元気だったんですけど、体力が駄目ですね」
花咲は敷物を広げ、弁当箱を取り出した。
「この前、眞尋が唐揚げを食べたいって言ってたから。作ってきたよ」
眞尋の顔が明るくなる。
「正直、ちょっと期待してました」
「醤油味と塩味、両方あるから」
「贅沢。最近まともなものを食べてなかったから、泣きそう」
リリにも弁当が差し出される。
「未来人の分もあるよ」
「いつでも食べられるって言ってたのに、施しは受けるんだ」
「いっぱい食べなさい」
山頂の風へ、唐揚げの香ばしい匂いが混じった。三人は取り留めのない話をしながら弁当を空にした。
「ハイキングは、弁当を持ってきてこそだね」
「景色だけでご飯は食べられないから」
「この弁当を楽しみに、風邪明けで登ったところはあります」
「じゃあ、もう一個食べなさい」
眞尋は醤油味と塩味を見比べ、真剣に悩んだ。
「前に食べた時は、どっちが好きだったかな」
花咲が不思議そうに箸を止める。
「前にも両方作ったよ」
「そうでしたっけ。どっちも美味しかった記憶だけある」
「なら今日も両方食べればいいでしょう」
「それを待ってました」
リリは唐揚げを一つ取り、断面を眺めた。
「眞尋、最近まともなものを食べてなかったって、何を食べてたの?」
「食べられる時に、食べられるものを」
「答えになってない」
「だから花咲さんの弁当を楽しみにしてたんです」
花咲は呆れながらも、眞尋の取り皿へもう一つ唐揚げを置いた。
「いっぱい食べなさい。次にいつまともなものを食べるか分からないんでしょう」
「ママだ」
「未来人の分も忘れないで」
「リリさんは自分で取ってるでしょう」
「人からもらう唐揚げは味が違うかもしれない」
「同じ弁当箱から取ってるから、同じ味です」
くだらない応酬のあいだにも、弁当箱は確実に空になった。その味と会話は、後に眞尋が何百回繰り返しても忘れられない、最初の一日の輪郭になった。
食事を終える頃には、帰りのバスを考えなければならない時刻になっていた。
「そろそろ下りたほうがよさそう」
「楽しかった。普段、みんな家にいるから、こういう自然は新鮮ですね」
花咲は眞尋を見て、ふと思いついたように荷物から紐を出した。
「帰りにいなくならないよう、眞尋へ紐を付けよう」
「なんで腕を組むんじゃなくて、紐なんですか。犬じゃないんだけど」
「危ないから」
「手を繋げばいいでしょう?」
リリは無表情のまま紐を見た。
「知らない間に別の人の腕を組んでるかもしれない。紐のほうが安全」
「そんなことある?」
「あるかもしれない。山って何が出るか分からないし」
花咲は眞尋の腰へ紐を回し、自分とリリも同じ輪へ入った。
「待って。これ、私だけじゃなくて全員繋がれるんですか?」
「誰か一人だけいなくなったら困るから」
「だったら最初から手を繋げばいいのに」
「手は疲れたら離すでしょう。紐は離れない」
リリが紐を指で弾いた。
「合理的」
「未来人が納得しちゃった」
下り坂では、誰かが速く歩けば全員の腰が引かれた。そのたびに文句と笑い声が上がり、転ばないよう自然と歩調が揃っていく。
「眞尋、ちゃんといる?」
「います。紐で繋がってるんだから、分かるでしょう」
「よかった。帰ったらほどいてあげる」
「今ほどいてください」
「危ないから駄目」
その時の花咲は、本当に仲間を見失わないための冗談として紐を結んだだけだった。何度目かの反復で、それが眞尋を問い詰める道具になるとは思っていなかった。
三人は笑いながら山を下り、帰りのバスへ乗った。
その日が一度きりなら、紐に繋がれたこと以外は、楽しい思い出として終わったはずだった。
第三章#
次に眞尋が目を開いた時、三人は祠の前に立っていた。
供え物は手元へ戻り、木漏れ日の角度まで最初と同じだった。
「怒られませんように。怒られませんように」
眞尋が祈る横で、花咲はこめかみを押さえた。
「これ、何回目?」
リリも祠と眞尋を交互に見る。
「またここだね」
「何の話ですか? 今から山へ登るんでしょう?」
花咲の右足に鋭い痛みが走った。リリも右手を押さえる。眞尋だけは、どこも痛んでいなかった。
「足、どこかで捻ったかな」
「私も右手が痛い。ぶつけた覚えはないけど」
「だったら帰りましょう。無理して歩かせられない」
「せっかく来たのに?」
「怪我人を歩かせるつもり?」
「リリさんは、これくらいなら我慢できるって言ってますけど」
「我慢できるのと、歩かせていいのは別」
花咲は自分の足を確かめるように踏み込んだ。鋭い痛みが走り、表情が歪む。
「やっぱり痛い。急に何でだろう」
「標高もそんなに高くないし、高山病ではなさそう」
「祠の呪いじゃない?」
リリの言葉に、眞尋が青ざめた。
「やめてください。私は触ってないです」
「触ってなくても覗いた」
「覗いただけで三人まとめて呪うなら、理不尽すぎません?」
「だから帰って謝ろうとしてるの」
三人は下山を試みた。しかし来た道は祠へも停留所へも繋がらず、帰り道にはなかった洞窟へ続いていた。
「来る時、こんな洞窟あった?」
「なかった。私たちは下ってるはずだよね」
「でも、先へ進むしかなさそう」
花咲は紐を取り出した。
「今度こそ、三人を結んで行こう」
「また紐なんだ。腕を組むんじゃなくて」
「いつの間にか知らない人と腕を組んでたら困るから」
三人は腰を紐で繋ぎ、洞窟へ入った。
洞窟の奥では、割れたランプが燃えていた。その近くに車のヘッドライトだけが転がり、岩肌へ左右対称の影をつくっている。
「火事にならない?」
「山には、いろんなものが捨てられるから。古いものみたいだけど」
眞尋は黒い影を見上げた。
「こんな時に聞くのもなんですけど、あの影、二人には何に見えます?」
「急に心理テスト?」
「ロールシャッハ・テストです。紙へ落としたインクを二つ折りにして、左右対称にできた模様が何に見えるか答えるもの」
眞尋は影の中央を指した。
「私は狐に見えます。真ん中の黒いところが、細い目みたいで」
花咲は首を傾げる。
「風船で作った犬かな。頭があって、耳が二つ立ってる」
二人の視線がリリへ集まる。
「何にも見えない」
「それも一つの答えなんでしょうね。私は専門家じゃないから、意味は分からないけど」
花咲は、もう一度影の形を見つめた。
「眞尋の狐は、どの辺が目なの?」
「中央の細く黒いところ。狐って、だいたい糸目のイメージがありません?」
「それ、糸目から狐を連想しただけじゃない?」
「連想も見え方の一部です」
リリは左右の輪郭を追った。
「犬に見えるのは分かるかも。風船で作った、耳が立ってる犬」
花咲の顔が明るくなる。
「そう、それ。頭があって、耳が二つあって、下が胴体」
「二人には見えるんだ。私には黒い染みのまま」
「何にも見えないのも、きっと何か意味があるんですよ」
「専門家じゃないんでしょう?」
「だから意味は説明できません」
眞尋が胸を張り、リリと花咲が同時に呆れた顔をした。その表情が炎に照らされ、岩壁の影と同じように揺れた。
その会話を断ち切るように、声ではない言葉が頭へ流れ込んだ。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
眞尋が瞬きをする。
世界は、また祠の前へ戻った。
何度進んでも山頂にも麓にも着かない。身体の痛みだけが、反復ごとに場所を変えた。
重くなった空気をどうにかしたくて、眞尋が話し始める。
「雑談していいですか。無言で登るの、嫌なので」
「落語でも始めるの?」
「心理テストみたいな話です」
眞尋は、病院のベッドへ繋がれた人の思考実験を説明した。
隣には世界的に有名なバイオリン奏者がいる。九か月チューブで繋がっていれば、その人は必ず助かる。だが、そのあいだ自分の自由は失われる。
「二人なら、自分の自由と相手の命、どちらを選びます?」
花咲はほとんど迷わなかった。
「九か月なら繋がってる。必ずドナーが来るんでしょう?」
「そこから動けないんですよ。九か月って、結構長いです」
「一年じゃなくて、九か月だから」
リリも静かに答える。
「私も繋がるかな。すでに繋がれてるなら、外したら自分が殺したみたいになる」
「最初から繋がれてなくて、協力してほしいと頼まれたら?」
リリは少し考えた。
「その時は、話し合いや見返りによるかもしれない」
眞尋は興味深そうに二人の答えを聞いた。
「人によって全然違うから、この話を友達に聞くのが好きなんです」
花咲が眞尋へ肩を寄せる。
「有名な奏者じゃなくて、眞尋でも助けるよ」
「さっきまで私を置いて帰ろうとしてたのに?」
「死なないなら置いていく。死ぬなら置いていかない」
「なるほど。合理的だ」
花咲は眞尋の問いを逆へ返した。
「眞尋ならどうするの?」
「私も繋がると思います。もう繋がれてるなら、外すのは怖い」
「普段どおりの仕事もできなくなるよ」
「スマホで生存報告くらいはできるかもしれない。九か月休みます、って」
「病院で迷惑にならない範囲なら、近況を伝えるくらいはいけるかな」
リリは現実的な条件を一つずつ数える。
「食事と通信が保証されて、仕事の損失を補償してくれるなら考える」
「やっぱり話し合いと見返りなんだ」
「相手の命だけが大事で、こちらの九か月を無料だと思われるのは違う」
花咲は深くうなずいた。
「助けることと、自分を雑に扱うことは別だよね」
眞尋は二人の答えを聞き、嬉しそうに笑った。
「こういう考え方の違いを聞くのが好きなんです。誰が正解ってわけじゃなくて」
「人の価値観を聞いて、にこにこする趣味」
「言い方は悪いけど、だいたい合ってます」
その問いはやがて、何百回という自分の時間を二人のために差し出した眞尋自身へ返ってくることになる。
笑いかけたところへ、思念が流れ込んだ。
――痛みは予感だ。解決の方法は一つしかない。
リリと花咲の左手に、同時に痛みが走る。
花咲は、もう耐えられなかった。
「眞尋に説明してもいい?」
リリが静かにうなずく。
「いいよ」
眞尋は二人を見比べた。
「何を説明するんですか?」
花咲は痛む手を押さえ、言葉を区切った。
「信じられないかもしれないけど、このやり取り、もう四回目」
「四回目?」
「眞尋が祠を覗いて、山頂へ行ったり下ったりして、またここへ戻る。それを四回やってる」
眞尋は困惑したように笑った。
「中二病の設定とかじゃなくて?」
「こっちは本気で怖いの。何度進んでも祠へ戻される」
リリも言葉を添える。
「登っても下っても、ここへ戻る。今回は洞窟の中身まで変わった」
眞尋は二人の顔を順に見た。冗談ではないと分かると、表情から笑みが消えた。
「分かりました。私に何ができるか分からないけど、協力します」
花咲はまだ納得しきれず、眞尋へ詰め寄った。
「本当に覚えてないの? 毎回、ここで『怒られませんように』って祈るんだよ」
「祈った記憶は、今の一回しかないです」
「山頂で唐揚げを食べたことは?」
「これから食べるんじゃないんですか?」
「洞窟の影を見たことは?」
「さっき初めて見ました」
リリは眞尋の表情を観察していた。困惑は演技には見えない。
「私たちと眞尋で、覚えている回数が違う」
「二人は四回。私は一回目だと思ってる」
「そういうこと」
眞尋は自分のこめかみへ指を当てた。
「何か、私だけ記憶が消えてるんですかね」
「分からない。今度は三人で、見たことを確認しながら進もう」
花咲は怒りを抑え、眞尋へ肩を貸した。
「痛みがなくても、一人で先へ行かないで」
「今度は紐じゃないんですね」
「必要なら、すぐ出すよ」
「持ってるんだ……」
第四章#
三人がもう一度山頂への道を進むと、参道の中央に黒い箱が現れた。
艶も継ぎ目もなく、周囲の光を吸い取る正方形。置かれた物というより、景色に四角い穴が穿たれたようだった。
「あんなもの、今までなかった」
花咲が眞尋の腕を掴む。
「こういうのには絶対に近づかない。触ったら、本当に紐でぐるぐる巻きにするから」
「私だって、あれがよくないものだって分かります」
「祠を覗いた人が言っても、説得力がない」
三人は身を寄せ、箱からできるだけ離れて通った。
その時、内側から雑音と切迫した声が漏れた。
『一名は軽傷。三名、まだ車内に取り残されている模様。至急、応援を求む』
三人の足が止まる。
続けて、意味だけが頭へ流れ込んだ。
――ブレーキ音のあと、世界は収束する。無傷が揃ったとしても、結末は保証されない。
眞尋が瞬きをする。視界が閉じ、また祠の前で開いた。
三人は戻った直後も、しばらく声を出せなかった。黒い箱は消え、空地には最初と同じ穏やかな風が吹いている。
「今の声、車内って言ってた」
リリが記憶を確かめるように口にした。
「軽傷が一人、取り残されてるのが三人」
「軽傷が運転手で、取り残されてる三人が私たち?」
花咲の問いに、眞尋はすぐ答えなかった。
「帰りのバスに乗ったあと、私はブレーキ音を聞いた気がする」
「また、覚えてない話が出てきた」
「気がするだけです。夢かもしれない」
リリは眞尋の目を真っ直ぐ見た。
「さっき、四回目だと聞いた時より驚かなかった」
「何がですか?」
「黒い箱を初めて見た人の顔じゃなかった」
眞尋は視線を逸らした。花咲も、そのわずかな変化を見逃さなかった。
「まだ何か隠してる?」
「隠してません。今は、とにかく三人で動きましょう」
その答えで疑いが消えることはなかった。けれど世界が再び変わる前に、手掛かりを一つでも多く集める必要があった。
花咲が供え物を片づけ始めた。
「もう祈っても無駄。ポテトチップスも持っていく」
「食べたら、唐揚げが入らなくなりますよ」
眞尋の何気ない言葉に、花咲の手が止まった。
「どうして唐揚げを知ってるの?」
「何となく、そんな気がしただけです」
リリと花咲は顔を見合わせた。花咲は持っていた紐を広げる。
「眞尋、ちょっと木に縛るね」
「待って。何でそうなるんですか」
「説明してもらわないと」
「私は私です。何かに乗っ取られてません」
「だったら、何百回繰り返したの?」
眞尋は言葉を失った。
リリが逃げ道を塞ぐように尋ねる。
「いつから覚えてた?」
しばらくして、眞尋は観念したように肩を落とした。
「縄をほどいてくれたら、話します」
「話したら、お弁当も食べさせてあげる」
「飴と鞭の差がすごいなあ」
花咲は紐を緩めたが、端を手から離さなかった。
「逃げないでね」
「逃げません。どうせ、どこへ行ってもここへ戻るんでしょう?」
「それを知ってる時点で、説明が必要」
「二人が知らないことを、私は知ってる。でも、知らないふりをしたのには理由があります」
リリは木の根元へ腰を下ろした。
「順番に話して。最初のバスから」
眞尋は祠を見た。何百回も同じ場所で始めた説明を、今度こそ最後まで話すために息を吸った。
紐をほどかれた眞尋は、祠の前へ座った。花咲とリリも向かい合って腰を下ろす。
「二人が覚えてる最初の記憶は、どこまでですか?」
「山頂へ行って、弁当を食べて、帰りのバスへ乗ったところまで」
「私も最初は同じでした。バスの中で大きなブレーキ音を聞いて、次に目を開けたら、この祠にいた」
眞尋は自分の手を見つめた。
「でも二人は、今から山へ登るつもりでいた。身体のどこかが痛いとも言ってた」
「だから、痛みがなくなるまで繰り返そうと思った?」
「はい。ループを抜けた時に痛む場所があると、現実でそこを怪我するんじゃないかと思ったんです」
風が三人のあいだを抜け、祠の古い戸をかすかに鳴らした。
「何回、繰り返したの?」
「数えるのをやめました。二人が気づく何百回も前からです」
花咲の怒りが、驚きへ変わる。
「どうして知らないふりをしたの?」
「二人が気づく前に、何事もなく外へ出してあげたかったから。気づき始めてから、洞窟の火や黒い箱が出て、私の知らない世界に変わってきた」
眞尋は苦く笑った。
「二人のために頑張ったのに、木へ縛りつけられるとは思いませんでした」
花咲は紐を完全にほどき、眞尋の手首へ跡が残っていないか確かめた。
「何百回も繰り返して、怖くなかったの?」
「最初は怖かったです。二人が毎回忘れるのも、身体の痛みが変わるのも」
「途中からは?」
「数えるのをやめたら、怖いというより、作業みたいになりました。祠で謝って、山を歩いて、痛む場所を確かめて、また戻る」
リリは静かに眞尋の横へ座った。
「私たちが同じ冗談を言うのも、全部聞いてた?」
「何度も。ポテトチップスも、スマホと財布も、紐で結ばれるのも」
「唐揚げの味も?」
「毎回、初めて食べるふりをしました」
花咲の目が潤みかけ、眞尋は慌てて笑う。
「でも、美味しいのは毎回同じでしたよ」
「そういうことじゃない」
「分かってます。二人に同じ一日を繰り返させてるのが申し訳なくて、せめて怖がらせたくなかった」
「私たちのために黙るって決めたのも、眞尋一人だったんでしょう?」
リリの問いに、眞尋は答えられなかった。
「助けようとしてくれたことは嬉しい。でも、次は三人で決める」
「怒ってないんですか?」
「説明が遅いことには怒ってる」
花咲が眞尋の額を指で軽く弾いた。
「次に一人で抱え込んだら、今度こそ本当に縛るから」
「結局、縛るんだ」
三人のあいだに、ようやく同じ時間が流れ始めた。
「説明が足りなかった」
「本当にそれ」
リリの短い言葉に、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
「ごめんなさい。もっと早く話せばよかった」
花咲は眞尋の前へ弁当を差し出した。
「一人で何百回も抱えてたなら、まず食べなさい。考えるのは、そのあと」
「この状況でお弁当を食べるんですか?」
「お腹が空いたままだと、冷静に判断できないでしょう」
眞尋は唐揚げを一つ口へ運んだ。初めて食べるはずなのに、何度も知っている味だった。
「醤油と塩、どっちを何回食べても好き?」
「どっちも。選べないから、毎回両方食べました」
「何百回分も作った気はしないんだけど」
「花咲さんにとっては、今日一回分ですから」
「眞尋だけ、何百個も私の唐揚げを食べたんだ」
リリがポテトチップスの袋を開ける。
「それなら、もう一回くらい食べても誤差」
「供え物を普通に食べ始めた」
「祈っても無駄なら、もったいないでしょう?」
「神様が怒るかもしれない」
「もう十分怒られてるよ」
花咲の言葉に、三人は同時に祠を見た。戸はわずかに開いたまま、何も答えない。
「食べながら考えよう。痛みが怪我の予告なら、無傷の回を選ぶ」
「でも箱は、無傷でも保証はないって言ってた」
「保証がなくても、無傷のほうが可能性は高そう」
「残りの回数を使い切る前に、三人とも痛くない回が来たら出る。どう?」
眞尋は二人の顔を見た。自分一人で何百回も出せなかった答えが、食べ物を囲んだ三人のあいだでは自然に形になった。
第五章#
眞尋の感覚では、世界が保つのはあと五回ほどだった。
彼女が「出たい」と願えば、反復を終えられる。ただし、三人が無傷であっても現実で助かる保証はない。痛みがある状態で出ても、全員が死ぬと決まったわけではない。
「どこへ行く? まだ見てない場所を探す?」
リリは首を横へ振った。
「痛みがない回を狙う。できることを試してから出よう」
花咲も眞尋の隣へ座り直す。
「一人じゃないって、大きいでしょう?」
「もっと早く話せばよかった。こんなに普通に受け入れてもらえるなら」
「私を木に縛る前に話してほしかった」
「縛られたのは私です」
三人は顔を見合わせ、笑った。恐怖が消えたわけではない。それでも、同じ答えを三人で選べるようになった。
眞尋が瞬きをする。
次の反復では、眞尋の全身、花咲の右足、リリの左足が痛んだ。
「足だけは嫌だな」
「左手でよかった、なんて思える日が来るとは」
「今回は戻りましょう。まだ四回ある」
「全身が痛いって、どんな感じ?」
花咲が眞尋の肩へ手を添える。眞尋は息を浅くしながら、答えを探した。
「身体の内側を、全部一度に打ったみたいです。どこを庇えばいいか分からない」
「そんな状態で冗談を言ってたの?」
「黙ると、もっと痛い気がするから」
リリは眞尋の反対側へ回り、二人で身体を支えた。
「次へ行くよ。今度は一人で立たなくていい」
眞尋が瞬きをすると、痛みは消え、世界がまた祠の前へ戻った。
次の回では、花咲の左手だけが痛んだ。眞尋とリリは無傷だった。
「左手なら、このまま出ても大丈夫かな」
花咲の呟きに、眞尋は首を横へ振る。
「軽い痛みでも、現実では何が起きるか分からない。まだ回数はある」
「さっきまで一人で決めてた人が、急に慎重」
「二人へ話したから、失敗するのが前より怖くなったんです」
「じゃあ、その怖さも三人分に分けよう」
三人は手を重ねた。もう一度だけ戻ると決め、眞尋が瞼を閉じる。
再び瞬き。祠。風。木漏れ日。
三人は息を詰め、身体の隅々を確かめた。
誰にも痛みがない。
「来た。これは三人とも無傷だよ」
「本当に出る?」
「これ以上、隠してることはない?」
花咲の念押しに、眞尋は両手を上げた。
「ありません。祠の札も取ってません」
「心の中のお札も?」
「心の中のお札って何ですか」
花咲は、眞尋の手足を本当に無傷か確かめるように見た。
「全身が痛いのを隠してない?」
「隠してません。指も足も頭も、どこも大丈夫」
「リリさんは?」
リリは立ち上がり、その場で軽く足踏みした。
「痛くない。走れる」
「私は……大丈夫。前の回みたいな足の痛みもない」
三人とも無傷。その事実を口にするたび、希望より先に恐怖が膨らんだ。ここで出ると決めれば、次に何が起きてもやり直せない。
「無傷でも保証はないって、箱は言ってた」
眞尋の声が低くなる。
「それでも出る。ここが壊れるまで残るよりはいい」
「もし事故に戻っても、三人一緒だから」
花咲の言葉に、眞尋は目を閉じかけて止めた。
「瞬きで戻ってしまうから、閉じるのが怖くなった」
リリが眞尋の手を取る。
「今度は戻るためじゃない。先へ進むために閉じる」
眞尋は息を整えた。右手にはリリ、左手には花咲の温度がある。
リリが立ち上がり、二人へ手を差し出す。
「帰ろう。今度は三人で」
花咲と眞尋は、その手を取った。
眞尋が最後の瞬きをする。
目を開くと、三人は帰りのバスにいた。
夕方の光。窓を流れる杉。エンジンの振動。
次の瞬間、対向車がこちらの車線へ飛び出した。運転手が急ハンドルを切り、耳を裂くブレーキ音が響く。
バスは道を外れて横転した。
ガラスが砕け、身体が投げ出される。金属がねじれ、火と煙の匂いが車内を満たした。誰かの名を呼ぶ声も、やがて一つの轟音へ潰れていった。
遠くから近づくサイレンを聞きながら、三人の意識は暗闇へ沈んだ。
眞尋が目を開くと、病室の白い天井があった。
消毒薬の匂い。カーテン越しの足音。規則正しい機械音。
眞尋は指を動かし、手足へ力を入れた。どこにも痛みはない。隣から、布団を跳ね上げる音がした。
「唐揚げが食べたい」
リリの声だった。
花咲が安堵と呆れの混じった息を漏らす。
「唐揚げが食べたいって言えるなら、すこぶる元気だね」
「二人とも、本当に大丈夫?」
眞尋が身体を起こす。リリも花咲も、ほとんど傷を負っていなかった。
「よかった。二人に何かあったら、私……」
眞尋の声が震える。
花咲はベッド越しに手を伸ばし、その指先を握った。
「助けてくれて、ありがとう、眞尋」
「こちらこそ。二人が一緒に考えてくれたから、戻ってこられました」
「終わりよければ、すべてよし。供えたお金は、いつか倍返しにしてね」
「唐揚げを作りに行きます」
「一緒に食べてくれるってこと?」
「リリさん、レモンをお願いします」
「いっぱい掛けよう」
「そのままでも食べたいから、全部には掛けないで」
リリはシーツへ背を預け、天井を見上げた。
「今だから言えるけど、楽しいループだった」
「そう言えるのも、三人とも無傷で戻れたからですよ」
何百回もの孤独を越えてきた眞尋が、ようやく声を上げて笑った。
「またハイキングへ行きましょう。今度は別の山で」
リリは即座に首を横へ振る。
「山はもう駄目。次は海にしよう」
「暖かくなってからがいいね」
窓から差す光は、山頂で見たものと同じはずなのに、もう別の色をしていた。
閉じて、開いた瞼の先で、三人の次の約束が始まっていた。