Replay Collection
09 / 10えくれあシャッハ

リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#

原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:える/シスター・クレア/雪城眞尋「#えくれあシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=DgYRSVPK9Cc

これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。

登場人物#

える
森に親しむエルフ。山では、どんぐりごま大会に使うどんぐりを拾うつもりでいる。スイカ味のグミを持参し、二人との軽快なやり取りを楽しむ。

シスター・クレア
バードウォッチングをしてみたいと山行きを提案したシスター。双眼鏡に加え、唐揚げ入りの手作り弁当を用意し、ピクニックも楽しみにしている。

雪城眞尋
えるとクレアと出かけるピクニックを楽しみにしている少女。弁当の中身を尋ねたり、帰りのバス時刻を写真に収めたりと、にぎやかに山歩きを始める。


第一章動画で見る#

古い路線バスは、三人を乗せて緑の濃い山道を進んでいた。

窓の外で木々の梢が流れ、カーブのたびに陽射しが座席の上を渡る。車内には運転手のほかに乗客はいない。遠足のような気楽さの中で、えるが菓子の袋を鳴らした。

「スイカ味のピュレグミ。売ってたから持ってきたよ」

「期間限定の味ですか?」

「そう。ライチとか、プレミアムのも売ってた。プレミアムはうまい」

「普通のものとは、何が違うんですか?」

「えるも味の違いはよく分かってないんだけど、中にジュレが入ってる。食べたら、ちょっとしっとりしてた」

クレアは受け取った一粒を眺めてから、そっと口へ運んだ。

「私、普段はあまりグミを食べないので新鮮です。おいしいですね」

「いろいろあるよ。今日も何種類か持ってきたからね」

眞尋も袋へ手を伸ばしながら、ふと首を傾げた。

「今日って、どうして山へ行こうって話になったんでしたっけ?」

「バードウォッチングだよ。みんなで」

「あ、そうでした。クレアさんが鳥を見たいって言ってたんですよね」

「えるさんは、どんぐりコマ大会に使うどんぐりを拾いに行くんだと思っていましたけど」

「どんぐりコマ大会?」

「どんぐりでコマを作る大会。そういう遊びがあるんだよ」

「私はピクニックがしたいなって思っていました」

「じゃあ、山へ行けば全部できますね。鳥を見て、どんぐりを拾って、お弁当を食べる」

三人がそれぞれに違う目的を持ち寄った結果、今日の行き先が決まったらしい。それで十分だとでもいうように、三人は揃って頷いた。

バスが山奥へ入るほど、窓の外から人家が消えていく。対向車もなく、観光客らしい姿も見えない。

「ここまで人がいないと、本当に山奥へ来たんだなって感じがしますね」

「観光客も、海外から来た人もいないね」

「えるは、そんなに混んでる山へ行きたくないから。穴場のほうが落ち着いてていいよ」

「この山、パワースポットとして有名らしいですよ。雑誌に載っていました」

「何のパワースポット?」

「何の、と言われると分からないんですけど……恋愛ではないと思います」

「ええ、恋愛がよかった」

「一番必要だろ」

「そんな話、聞いてなかったよ」

眞尋が楽しそうに笑う。

「でも、何の御利益か書いてなかったなら、縁結びの可能性もありませんか?」

「その理屈、ちょっと怪しくない?」

「パワースポットって、行くだけで気が清まったり、気持ちが落ち着いたり、全部がよくなったりする場所でしょう?」

「魂が洗われるとか、リラックスするとか。そういうのならありそう」

クレアは膝の上の大きな包みを抱え直した。

「今日は、私がお弁当も作ってきましたよ」

眞尋がすぐに身を乗り出す。

「だよね。作ってきてくれると思って、私、何も持ってこなかったんです。よかったあ」

「何もなかったら、山の向こうにお蕎麦屋さんでもあるかなって思ってました」

「このバスの本数を見るかぎり、お店はあまり期待できないかもしれませんね」

「でも、よかった。本当に嬉しい」

「えるさんは、食べる気満々ですね」

「だって、クレアも食べてほしいんでしょ。いつも食べてくれる人を探してるじゃん」

「食べる人は探しています」

「需要と供給が合っちゃったな」

「唐揚げはありますか?」

「あります。いちばん自信があるので」

「クレアの唐揚げ、前に食べたけど本当にうまいよ」

「期待が上がっちゃいますね。ほかには何が入ってるんだろう」

「それは、山頂へ着いてからのお楽しみです」

やがてバスは、木立の中の小さな停留所へ着いた。降りた三人の前で、車体はすぐに山道の向こうへ小さくなっていく。

時刻表には、日に数本の数字しか並んでいない。次の便まで二時間。一本逃せば、さらに二時間待つことになる。

「写真を撮っておこうか」

眞尋が時刻表をスマートフォンへ収める。

「助かります。山頂まで行って戻るなら、二時間くらいでちょうどよさそうですね」

「時間を気にしながら歩こう。暗くなってから下りるのは怖いし」

「逃したくないです」

「山って、日が暮れると下りるのが本当に大変なんだよ」

クレアが、自分の経験を思い出すように言った。

「以前、高尾山へ行ったとき、帰りが遅くなって真っ暗な中を下山したことがあるんです。高尾山でも怖かったので、今日は気をつけましょう」

「クレア、高尾山へ行ったことあるんだ」

「昔、友達と。『山へ行こう』『緑を見に行こう』『もみじ狩りをしたい』という話になることがあって。でも、最近は全然行っていません」

「友達同士で『山へ行こう』ってなるの、すごいよね」

「今日はちゃんとスニーカーにしてきました」

えるも片足を上げ、軽いランニングシューズを見せた。

「えるもちゃんと山用。えらいでしょ」

「偉すぎます。舗装されているかも分からないので、転ばないようにしましょう」

「えるは森のプロだから。森に住んでるし」

「でも、えるさんは山を登らないで、羽で飛べるんじゃないですか?」

「上まで行けちゃうかも」

「やっぱり飛べるんですね」

「ただ、ライブみたいにみんなの声援がないと、遠くまでは飛べない。光るライトも振ってもらわないと」

「プリキュアみたいな仕組みなんだ」

「今日は地べたを踏みしめて歩こうね」

「でも、しんどくなったら、えるさんが運んでくれるってことですよね?」

「片手に一人ずつなら、いける」

「そんな怪力のイメージ、全然ないですけど」

「クレアが困ったら、涙が一滴ぴちょんと落ちて、えるに特別な力が湧くから」

「絶対にプリキュアの話をしていますよね」

笑いながら歩き始めると、舗装された道はすぐに土と小石の参道へ変わった。足元には昨夜の雨を含んだ落ち葉が重なり、踏むたびに柔らかな音を立てる。街の気配はバスと一緒に遠ざかり、鳥の声だけが枝から枝へ移っていった。

クレアは双眼鏡を胸元に下げ、頭上を見回す。

「バードウォッチングをしたいとは言いましたけど、虫は少し怖いです」

「山で鳥を見るなら、虫は避けて通れないんじゃない?」

「道端や川沿いでも、じっと観察していると珍しい鳥がいたりするんですよ」

「クレアだから、鳥のほうから寄ってくるんじゃない?」

「そうだったら嬉しいですね。この前も、お花の蜜を吸いながら、羽をものすごく速く動かす、小さな鳥みたいな生き物を見たんです」

「ハチドリ?」

「そう思って調べたんですけど、ハチドリに似た蛾だったみたいで。虫なのに、鳥みたいで、すごくかわいかったんですよ」

「虫だったのに、許せたんだ」

「怖くなかったので。素敵な出会いでした」

「えるさんは、虫は平気なんですか?」

「森で生まれてるし。ダンゴムシとバッタはいける。小さいころ、一緒に遊んでもらってたから」

「限定的すぎます。トンボは?」

「近づいてこなければ」

「蝶もだめなんですか?」

「顔へ、ばって来たら怖くない?」

「そういう環境で育ってきたはずなのに」

「えるの森には杉の木がないから、快適だよ」

「最高ですね」

「全部えるが斧で伐採した」

「森のプロが森林破壊をしています」

「よりよい森づくりのためだから。まだばれてない、ばれてない」

「もう自分で言っているので、絶対にばれていますよ」

三人の声は、誰もいない参道へよく響いた。眞尋は二人の少し後ろを歩きながら、そのやり取りを嬉しそうに聞いていた。

「二人と遊びに来られて、めちゃめちゃ嬉しいです」

言葉にした途端、胸の奥へしまっておくよりずっと確かな一日になった気がした。

第二章動画で見る#

参道を登っていくと、道が少し開けた。奥には、雨風に晒されて色を失った小さな祠が立っている。管理する者の姿も、由来を記した看板もない。

「なんだか、急にスピリチュアルな場所へ出ましたね」

「ここがパワースポットなのかな」

「御神木がありそうな雰囲気ですけど、ちょっと怖くないですか?」

えるは一定の距離を保ったまま、祠の周りを窺った。

「普通は、何の神様を祀っているか書いてあるものじゃないの?」

「山には神様がいる、と考えられてきましたからね。近くに住む人たちが、神様を祀れたらいいなと思って祠を建てる場合もあります」

「そうなの? える、最近、自然の神様が出てくるホラーゲームをやったから敏感になってるんだよ。この方は、いい神様なのかなって」

「でも、悪い感じはあまりしませんね」

クレアは祠へ向き直る。

「神様を都合のいい道具のように扱わなければ、大丈夫だと思います」

「かっこいい。お願い事をいっぱいすると、お返しもしなきゃいけないってこと?」

「お願いをするということは、感謝も一緒に運ぶことだと思います」

「クレアさんから、すごくシスターっぽい話を聞きました」

「『っぽい』ではなく、シスターです」

「今、怒りの印が見えたよ」

「見えていません」

眞尋が笑いながら、えるの背中を軽く押す。

「えるさん、怖いからって祠へ突っ込んじゃだめですよ」

「誰が祠を壊すんだよ。怪しいっていうより、本当に怖いだけだもん」

「それなら、軽くご挨拶だけしておきませんか?」

三人は祠の前へ並んだ。

「こんにちは。今から山へ登らせていただきます」

「こんにちは」

「対戦よろしくお願いします」

「対戦ではありません」

眞尋は笑いをこらえながら、持ってきたおにぎりを一つ取り出した。

「感謝を伝えるなら、お供え物もしておきます?」

「おにぎり、いいですね。お米はお供えに向いていそうです」

「せっかくお供えするなら、お願い事もしていいんじゃない? 無事に登れますように、とか」

眞尋はしばらく考え、手を合わせた。

「私は、みんな幸せでありますようにって願います」

「ずいぶん大きなお願いにしたね」

「神様に幸せにしてもらおう、というお願いじゃないんです。私が、えるさんにもクレアさんにも、幸せでいてほしいと思っている。それを宣言するだけです」

「うまい。そういう言い方なら、絶対いいことあるよ」

「あるといいですね。えるさんとクレアさんは、何も願わなくて大丈夫ですか?」

えるは目を閉じたまま答える。

「眞尋がいいことを言ってくれたから、えるは心の中で億万長者って願ってる」

「一番欲深い人がいます」

「いいこと担当と欲深い担当で、バランスを取ってるの」

「では私は、山へ登らせていただくことへの感謝を伝えます。よろしくお願いします」

三者三様の言葉を置き、おにぎりを供えた。祠は何も答えなかったが、木々を渡った風が三人の髪を揺らした。

「ご挨拶もしたし、おにぎりもお供えした。そろそろ山頂を目指そうか」

そこからしばらく進むと、道の脇に洞窟が現れた。大きく開いた入口の先は、昼の光を数歩で呑み込むほど暗い。

「すっごい。先が見えないよ」

「ちょっと怖いです。ライトも持っていないですし」

「スマートフォンで照らしましょうよ」

「現代だ」

クレアが一歩下がる。えるは入口の前まで進んだ。

「何も案内がないなら、人工物じゃなくて自然にできた穴なのかな」

「そのほうが怖くありませんか?」

「でも、こういう場所へ入ったら話の種になるじゃないですか」

「配信者の好奇心が出てるよ」

「怖いです」

「クレアは入口で待っててもいいよ。えると眞尋で、ちょっと見てくるから」

「一人で入口に残されるのも、それはそれで怖いです」

「じゃあ、入口だけ。中身をかじる程度に見ておこう」

眞尋が先を照らし、えるがその横へ並ぶ。クレアは二人の背中を盾にするように、いちばん後ろからついてきた。

内部はすぐ行き止まりだった。湿った岩肌と、靴音を返す狭い空間があるだけで、崩れそうな場所も、不思議なものも見当たらない。

「ただの穴でしたね」

クレアは心の底から息を吐いた。

「よかった。本当に奥まで続いているのかと思いました」

「話の種としては、『何もなかった』だけだと落ちが弱いな」

「現実では、それでいいんです。何かあってニュースになったら大変ですから」

「もっと自然を楽しもう。暗い穴じゃなくて、蝶……じゃない、鳥を見に来たんだから」

「『鳥』を『ちょう』と読んでしまいましたね」

「音読みしちゃった」

笑いながら雑木林を抜けると、三人はようやく山頂へ着いた。

空は青く晴れ渡り、眼下には幾重もの山並みが連なっている。雲の影が谷をゆっくり渡っていた。

「すごい。意外とあっという間だったね」

「ずっと話していたからかもしれません。全然つらくなかったです」

「比較的、緩やかな山でしたね」

「これなら高尾山も行けるわ」

「える、高尾山へ登ったことないけどね」

三人は敷物を広げ、クレアが抱えてきた大きな弁当箱を中央へ置いた。蓋を開けると、唐揚げ、卵焼き、アスパラガスのベーコン巻き、色のよい野菜が隙間なく詰められている。別の包みには、おにぎりとウインナーもあった。

「運動会のとき以来に見る大きさのお弁当です」

「みんなで食べる機会じゃないと、こんなにたくさん作れませんから」

「一番の自信作はどれ?」

「唐揚げです。以前作っておいしかったレシピなので、間違いありません」

眞尋は真っ先に唐揚げを取り、目を輝かせた。

「私が一番食べたかったものです」

「早いよ。えるも唐揚げ」

「卵焼きもありますし、私はこのベーコンでアスパラガスを巻いたものが好きなんです」

「たこさんウインナーはありますか?」

「普通のウインナーならあります」

「たこさんにする時間はなかったんだ」

「ほかにもこれだけ作っていただいたんですから」

クレアが取り分けているあいだも、えるの手元から菓子袋の音がする。

「えるさん、さっきからずっとグミを食べていません?」

「お弁当とは別腹」

「お弁当も食べてください。三人で食べたくて作ったんですから」

三人は声を揃えた。

「いただきます」

最初に唐揚げへ手が伸びる。

「おいしい。これ、本当に何個でも食べられます」

「いい感じにできたみたいで、よかったです」

「ガチでうまいよ、クレア」

「二人なら全部食べきってくれると信じて、たくさん作ってきました」

「持って帰るのは、この時期だとちょっと怖いもんね」

「傷みにくくするシートは入れていますけど、この気温には負けるかもしれません。ここで、食べられるだけ食べてください」

「責任は取れないんだ」

「取れません」

えるは頷き、もう一つ唐揚げを取った。

「食べられるだけ食べる。詰め込む」

「えるさんは、たくさん食べるイメージがあります」

「クレアも結構食べるでしょ」

「どうでしょう。ルーちゃんよりは食べると思います」

「えるより食べるってこと?」

「気持ちでは大食いなんですけど、実際にはだんだん食べられなくなってきているんですよね」

「分かる。食べる気は満々なのに、思ったより入らないやつ」

食事の合間に風が通り抜け、汗ばんだ肌を冷ました。

「自然の中でご飯を食べるの、いいですね」

「デジタルデトックスだ。山へ来てから、スマートフォンを全然触ってない」

「自分の名前も検索していないんですか?」

「してない、してない。二人との会話が楽しいから」

眞尋は弁当箱と二人の顔を順に見た。

「二人と遊びに来られて、めちゃめちゃ嬉しいです。お弁当まで作ってきてもらって、今、すごく幸せです」

枝のどこかで、小鳥が短く鳴いた。クレアはすぐに双眼鏡を取り出す。

「鳥も鳴いていますね。珍しい子がいるかもしれません」

「双眼鏡、持ってきたんだ。さすが」

「見てみますか?」

クレアは眞尋へ双眼鏡を渡した。レンズの向こうでは、小さな鳥が枝から枝へ移っていく。詳しい名前は分からなくても、その瞬間を三人で見つけたことが嬉しかった。

「鳥も見えますけど、景色もきれいです。意外と高いところまで登ったんですね」

「晴れてよかった。える、高いところへ出かけるときは大体曇るから」

「『高いところへ行くとき』って、そんなに何度もあるんですか?」

「修学旅行でスカイツリーとか、東京タワーとか」

「エルフも修学旅行でスカイツリーへ行くんですね」

「人間とエルフ、そんなに違わないのかもしれない」

食後もしばらく横になり、旅行や昔の話をした。下界より近い空が、今日という時間をどこまでも穏やかに見せていた。

やがてクレアが時刻を確かめる。

「こんなにまったりしていましたけど、バスの時間は大丈夫でしょうか?」

「そろそろ下りたほうがよさそう。食べ終えたら、ぼちぼち帰ろうか」

「間に合わなかったら、もう二時間待てばいいんですけどね」

「できれば間に合わせよう」

三人は敷物を畳んで下山した。帰りのバスにも間に合い、車窓の緑は来たときと反対へ流れていく。

「みんな、幸せになりますように」

眞尋は祠で口にした言葉を小さく繰り返し、楽しかった一日を胸の中で反芻しながら瞼を閉じた。

次に目を開けたとき、目の前には古びた祠があった。

第三章動画で見る#

「お二人は、何も願わなくて大丈夫なんですか?」

自分の声を聞いた眞尋が、息を止める。

帰る途中だったはずだ。バスの振動も、満腹になった身体の重さも覚えている。それなのに三人は再び祠の前に立ち、供え物は置かれる前の状態へ戻っていた。

「え、帰る途中じゃなかった? 今、何をしてたんだっけ」

えるが辺りを見回す。クレアも自分の荷物を確かめ、表情を曇らせた。

「これからお願い事をしよう、と話していたところですよ」

「お弁当は?」

「まだ食べていませんけど」

「食べたよ。唐揚げも、卵焼きも」

「えるさん、つまみ食いしました?」

「してない。じゃあ、億万長者、億万長者……」

「状況が分からないのに、願いだけは強欲ですね」

クレアは戸惑いながらも、先ほどと同じように祠へ頭を下げた。

「私は、山へ登らせていただくことへの感謝を伝えます」

やがて三人は、もう一度山頂を目指して歩き出した。だが、今回はすぐに小さな異変が起きる。

クレアが右手を庇った。

「急に、手が重いというか、痛くなって」

「昨日、荷物でも持ちました?」

「そうかもしれません。大した痛みではないと思うんですけど」

「奇遇だね。えるも右足が痛い」

「今から登るのに、足は大変じゃないですか。歩けます?」

「疲れかな。いつもは左へ重心が寄ってるって言われるから、痛くなるなら左足のはずなんだけど」

「今日は右なんですね。無理しないでください」

眞尋は二人の荷物へ手を伸ばした。

「私が持ちますよ。私はどこも痛くないので」

「ありがとう。これはどんぐりを入れる大切なケースだから、よろしくね」

二人の痛みは、転んだ記憶も、捻った様子もないのに深く残っていた。

「本当に二人とも、体調が悪いわけではないんですよね?」

「そのはずなんだけど、ちょっとおかしい感じはある」

「無理なら早めに引き返しましょう。今、何時でしょう」

眞尋がスマートフォンを確かめる。表示されているのは、停留所を出てからそれほど経っていない時刻だった。

「あれ……」

「どうかしました?」

「私も、えるさんと同じ現象を感じているかもしれません」

「同じ現象?」

「まだ確信はないんですけど。この景色を、前にも見たような気がして」

「デジャヴみたいな?」

「はい。それも、この三人で山へ登ったところまで、すごく具体的に」

「えるもそういう悪夢、よく見る。夢かと思うくらい具体的なやつ」

「私は景色だけのデジャヴならありますけど、同じ三人で、というところまで重なるのは珍しいですね」

奇妙さは残ったが、今は確かめる方法がない。三人は、ひとまず先へ進むことにした。

舗装されていない参道は、先ほどより歩きづらく感じられる。クレアが何度もえるの足元を気にした。

「その足で本当に大丈夫ですか? 飛んでもいいんですよ」

「飛ぶには声援が足りない」

「私たち二人の声では足りないんですか?」

「もっとたくさん必要なの。二人じゃだめ、って言い方はちょっと寂しいけど」

「ゆっくりでいいですよ。話に集中していれば、意外とすぐ着くかもしれません」

「じゃあ、何か話題を決めよう。心理テストは好き?」

「好きです」

「好き、好き。何?」

二人が思いのほか勢いよく乗ってきたので、眞尋は少し笑った。

「心理テストというより、最近聞いた思考実験です。今から話すことを、自分が本当に経験しているつもりで考えてください」

「分かりました」

「あなたは病院のベッドに横たわっています。隣のベッドには、見知らぬ人が一人います」

「もう怖い」

「怖い話ではないです。その人とあなたの身体は、輸血用の管で繋がれています」

「見知らぬ人なのに? やっぱり怖いじゃん」

「クレアさんの、そういうところ好きです。話を戻しますね。お医者さんによると、隣の人は有名なバイオリン奏者で、命を救うためにはあなたと繋がっている必要があるそうです」

「管を外したら、その人は?」

「亡くなります。繋いだままなら助かりますが、そのあいだ、あなたの自由は失われます。次の提供者が現れるのは九か月後です。二人ならどうしますか?」

「九か月なら、全然あり」

「えるはエルフだしね」

クレアも頷いた。

「私も、会いたい人に連絡を取れて、お見舞いに来てもらえるなら待てると思います」

「現実的ですね。では、九か月ではなく十年だったら?」

二人は揃って身をのけぞらせた。

「十年は長いよ。そもそも、誰が勝手に繋いだの?」

「命は助かってほしいです。でも、そのあいだ自分はどうなるんだろう、とは思います」

「病院では食事も出ますし、連絡も取れます。会いに来てもらうこともできます。ただ、自分から会いに行くことはできません」

「病室から配信することも難しいか」

「窓からバードウォッチングはできるかもしれません」

「でも、会いたい人全員に会えなくなるのは寂しいな。友達も、いつも見てくれている人たちもいるし」

「十年はきついですね」

「六年なら?」

「小学一年生が六年生になる長さだよ。無理」

「今の反応で、えるさんは六年もだめだと分かりました」

「一年を超えたら、ちゃんと考え直す時間に入る気がする」

「逆に、一年なら待てる?」

えるはしばらく黙って歩いた。

「長いとは思う。でも、自分が管を外したせいで相手が死んだって背負って生きるくらいなら、えるが一年待つほうがいい。相手の命も助かってほしいし、自分もそのほうが苦しくないと思う」

「一年待つあいだに、別の方法が見つかるかもしれませんしね」

「もし最後まで、えるじゃないとだめなら……そのときは、しょうがないって思うかもしれない」

眞尋は次の条件を口にした。

「では、隣にいるのが知らないバイオリン奏者ではなくて、えるさんの隣にはクレアさん、クレアさんの隣にはえるさんがいたら?」

「それ、えるも考えてた」

「知らない人でも命は重いですけど、大切な人なら答えが変わるかもしれませんね」

「隣の人と会話はできるの?」

「できることにしましょう」

クレアはほとんど迷わなかった。

「それなら、一生でもいいです」

「一生は長いぞ」

「長くても、失う悲しみのほうがつらいと思います。えるさんを失うことは、考えられません」

「クレアが一生って言ったら、えるは八百年くらい隣にいることになるけど」

「長老になってしまいますね」

冗談にして笑ったあと、えるは慎重に言葉を選んだ。

「えるも、年数の問題じゃなくなると思う。ただ、相手には好きなことをしてほしいから、縛りたくはない」

「相手が『意外と楽しいから大丈夫』と言ってくれたら?」

「そんなことを言わせたくない。自分のために、相手が自由を諦める答えを選ぶのは嫌だ」

「管を繋がれる側と、命を救われる側でも、考え方が変わりそうですね」

「そう。助ける側なら残りたいけど、助けられる側なら相手を縛りたくない」

「ちなみに、有名なバイオリン奏者という条件は、二人の答えに影響しませんでしたね」

「ごめんなさい。本当に、知らない人だったから」

「有名かどうかより、その人を知っているかどうかのほうが大きいかな。もちろん助かってほしいけど、次の人が来るならよかった、と思う」

眞尋は二人を見比べた。

「私は、えるさんでもクレアさんでも、一生隣にいられますよ」

「える、普段は結構おとなしいよ。八百年も楽しませられない」

「黙っていてもいいです。二人で出かけて、ずっと喋らない時間だってあるでしょう」

「そう言われると、『えるに時間を使うのはもったいないよ』って言いたくなる」

「私は、そんなことないと思います」

「クレアが同じ立場でも、絶対『もったいない』って言うでしょ」

クレアは返事に詰まり、それから苦笑した。

「もし私が眠っていて、起きたらそう言ってしまうのなら、起こさずに助けてもらうほうがいいのかもしれません」

「でも、会話できたほうが楽しいよ」

「楽しいですけど、助けられる側だと申し訳なさもあるでしょうね」

「何も知らないのが、一番幸せなのかもしれない」

話は、誰かを救うことと、誰かの自由を奪わないことのあいだを行き来した。相手のためを思ってした選択が、相手の意思を奪うこともある。祠で願った「みんな」という言葉には、誰か一人を数から外さない難しさが含まれていた。

ふいに、声ではないものが三人の頭へ流れ込んだ。

――痛みは予感だ。それでも、解決の方法は一つしかない。

続いて、祠で重ねた願いが、自分たちの声とは違う響きで返ってくる。

――みんな幸せになりますように。

えるは足を止め、こめかみを押さえた。

「何、今の。怖いよ」

次に瞬きをしたとき、三人はまた祠の前にいた。

クレアは変わらず右手を庇い、えるは今度、左足に痛みを感じた。

「手をぶつけました?」

「昨日、荷物を持ったせいかもしれません」

えるとクレアは同時に顔を上げた。

「それ、さっきも聞いた」

「私も、さっき言った気がします」

「えるも足が痛い。まだ歩き始めたばかりなのに」

「今度は、どちらの足ですか?」

「左。さっきは右だったよね」

二人の視線が眞尋へ集まる。

「非常に信じがたい話だと思うんですけど、私とえるさんは、同じことを考えています」

「何ですか。怖い顔をしないでください」

「私たち三人、ここへ来るのが三回目なんです」

「三回目?」

「この一日を、繰り返してる」

眞尋は笑おうとした。

「そういうドッキリでしょう? アニメや漫画ならともかく、ここは現実です」

「じゃあ、眞尋。お弁当には普通のウインナーが入ってる」

「たこさんウインナーが好きなのに、時間がなくて普通のまま焼いたんだよね」

「一番の自信作は唐揚げ。前に一度作って、おいしかったレシピだから」

クレアも続ける。

「そのレシピを教えてくれた方の名前も、私たちは聞きました」

眞尋の顔から、笑いが消えた。

「どうして、そこまで知っているんですか。この話は誰にもしていないのに」

「一回目の眞尋が、山頂で話してくれたから」

「二回目、えるはデジャヴだと思って流した。でも今回は、クレアも覚えてる。疲れてるだけじゃない」

「二回目には思考実験の話をしたけど、一回目にはしていませんでした。毎回、起きることや話題が少しずつ違うんです」

眞尋はなおも二人を疑うように見た。

「二人が同時に言うなら、ぐるになってるってことじゃないですか。私、すぐドッキリだと思ってしまう職業ですし」

「職業病が出てるよ。でも、これは違う」

「眞尋も、自分がこの繰り返しの中にいるって分かって。そうしないと、抜け出す方法を探せない」

「本当に、何を言っているのか分かりません。初めて来た山なのに」

「なら、これから山頂へ向かう途中を見ていて。今回も、前とは違うことが起きるかもしれない」

えるは眞尋の前へ回り、いつもの軽さを取り戻すように胸を張った。

「大丈夫。えるが眞尋を救うから。眞尋は何も気にせず、山頂を目指して」

「救ったら、ちゃんと種明かししてくださいね」

「うん」

眞尋は、ひとまずそういうことにしようと頷いた。二人が変なのはいつものことだ。けれど、その明るい声の奥に見えた疲れだけは、いつもとは違っていた。

第四章動画で見る#

三人は、もう一度洞窟へ向かった。

祠から少し歩いた先、木々のあいだに口を開ける洞穴は、前に見た時と同じように看板一つない。クレアは入口を見ただけで肩をすくめた。

「うわあ……やっぱり嫌です。何にも書いてないってことは、自然にできた洞窟なんですよね」

「だからこそ、わくわくするじゃないですか」

眞尋が目を輝かせると、えるが感心したように頷いた。

「怖いものって配信のネタになるもんね。常日頃から話すことを探してる」

「配信頻度がすごいですからね。でも、危なそうならすぐ戻りましょう。普通の洞窟なんですから」

「普通ならいいんだけど。遠くから明かりを当てて様子を見る?」

「暗すぎて見えませんよ。せっかくバードウォッチング用の双眼鏡を持ってきたんですから、使ってみますか」

クレアは双眼鏡を差し出しながらも、自分では覗こうとしなかった。

「ちょっと怖いので、誰かお願いします」

「じゃあ、まひまひ。見てみてよ」

「私、中へ入ってもいいくらいなんですけどね」

眞尋が双眼鏡を目に当てる。闇の中で焦点を合わせるうち、奥に白い光が二つ浮かび上がった。

「何か、光ってませんか」

「やだ。人がいるの?」

「ほかの登山者でしょうか。声をかけてみます?」

えるは入口へ向かって、普段の挨拶を投げた。

「こんにちエルー!」

「それで返事が来たら、身元がばれちゃいますよ」

返事はない。クレアだけを外へ残す案も出たが、彼女はすぐ首を振った。

「一人で待つ方が怖いです。お弁当も一緒に食べたいですし、行きます」

「じゃあ、みんなで手を繋いで行こう」

三人は互いの手を取り、闇へ踏み込んだ。

白い光は、近づくほど奇妙な形を見せた。岩の上で炎を上げているのは、割れたランプ――いや、車の前照灯のような部品だった。そばには人影にも見える輪郭があったが、確かめれば自分たちの影にすぎない。

「洞窟の中で燃えてることなんてあります? 消火器もないのに」

「車のヘッドライトみたい。でも、ここは行き止まりですよ」

「昔、車が通ってたとか?」

「トンネルだったようには見えません。どうしてライトだけがここにあって、今も燃えてるんでしょう」

炎が岩肌へ投げる影は、中央から折り返したように左右対称だった。クレアはそこから目を離せない。

「あの影、不気味です。こういう左右対称の絵を見て、何に見えるか答えるものがありませんでしたっけ」

「心理状態が答えに出るっていうやつ?」

「私は今、木に見えます」

「えるは、目かな。さっきバッタの話をしたから、怒ってるバッタにも見える」

「怒ってるバットにも聞こえました」

「カマキリみたいでもあるね。クレアが目だと思ったところが、えるには手に見えてるのかも」

正解のない影を見比べていると、炎が大きく揺らいだ。

――時間が来たら、影は実体を取り戻す。

声ではない念が頭蓋の内側へ流れ込み、眞尋が瞬きをする。

「みんな幸せになりますように。……お二人は、何もお願いしないんですか?」

「待って」

えるが眞尋の言葉を遮った。

「私たち、ここで何かを祈る必要があるんじゃない? この繰り返しを終わらせるために」

眞尋は、とうとう口を開いた。

「信じられないと思うんですが、私たちがここへ来るのは初めてではありません」

「山に来たことがあるって話?」

「違います。今、この時間を四回繰り返しています」

クレアは目を丸くし、えるはしばらく考えた末に手を打った。

「分かった。ドッキリだ」

「三回目のえるさんも、そう言いました」

「ドッキリにしては設定に現実味がなさすぎるでしょう」

「逆に、そう思わせるドッキリかもしれません」

眞尋は困ったように笑った。

「本当に、そうだったらよかったんですけど。何度繰り返しても、終わりが見えないんです」

二人に信じてもらうため、眞尋はまだ開けていない弁当の中身を言い当てた。クレアがいちばん自信を持つ唐揚げ。時間が足りず、たこさんの形にはできなかったウインナー。誰にも話していないはずの事情まで聞かされ、クレアの顔から冗談めいた疑いが消える。

「レシピまで知っているんですか。家に何か仕掛けていませんよね?」

「お二人はいつも通り、明るく楽しく山頂を目指してください。私とクレアさん――じゃなくて、私が、この状況を何とかします」

「急にテンションが落ちて、そっちの方が怖いよ」

「祠の神様か何かは分かりませんけど、どうにかしてください。お願いします」

「さっきまで願い事は慎重にって言ってたのに、急に必死だね」

「時間が進まなかったら、億万長者になってもお金を使えませんから」

「やっぱりお金を願うつもりだったんだ」

笑いを取り戻し、三人は洞窟を出た。

やがて、道の中央に黒い正方形の箱が現れた。継ぎ目も取っ手もなく、そこだけ光を吸い込んでいるように見える。先ほどまではなかったはずのものだ。

「明らかに怖いやつじゃん。もう戻ろうよ」

「まひまひ、あの中にドッキリの種明かしが入ってるから、ちょっと見てみて」

「本当にこういう時のえるさんって……。自分が見るより、私に行かせようとしてますよね。この中で一番後輩なんですけど」

「おいしいところを後輩に譲ってるんだよ」

「嫌すぎる先輩です」

クレアへ役目を渡そうとすると、彼女も「戻りましょう」と首を振る。えるは仕方なさそうに一歩出た。

「える、意外とこういうのは大丈夫だから、見てみようか」

「吸い込まれないように、紐を結びます?」

「このリボンを持ってて。いざという時は引っ張り上げてね」

「紐で助けられる距離なら、離れたことにならない気もしますけど」

結局、眞尋が近づくことになった。彼女は二人へ十分に離れるよう頼み、黒い面へそっと手を伸ばす。

雑音交じりの、切迫した声が聞こえた。

――車内に、まだ人が取り残されている模様。救助を求め――。

それに重なるように、再び念が流れ込む。

――ブレーキ音の後、世界は収束する。無傷が揃ったとしても保証はない。それでも――。

眞尋が瞬きをする。

「みんな幸せになりますように。お二人は、何もお願いしないんですか?」

言葉が終わった途端、クレアとえるの胸に鋭い痛みが走った。

「二人とも、胸ですか? 酸素が足りないとか……本当に大丈夫ですか。少し休みましょう」

「時々、きゅっとなるような痛み。調べると血の巡りがどうとか出てくるやつ」

「でも、止まっちゃいけない気もする。山頂へ行かないと」

「手や足は? 本当に、ほかはどこも痛くないですか?」

眞尋の問いはあまりに切迫していた。今は手も足も痛まないと答えると、彼女は安堵と不安の入り交じった顔をした。

「二回目か三回目には、左足が痛かったよ。痛い場所が、繰り返すたびに更新されてるみたい」

「やっぱり、繰り返してるんですね」

「今度は私たちが説明する番かな。落ち着いて聞いて、まひまひ。私たち、同じ場所を五回くらい繰り返してる」

「なるほど」

眞尋があまりに素直に頷くので、二人はかえって戸惑った。

「今回のまひまひ、ちゃんと同じ軸で考えてくれそう」

「これまでの私は、信じなかったんですか?」

「ドッキリだって言ってた。今回も最初はそうだったけど、胸の痛みを本気で心配してくれたから」

山頂を目指すか、引き返して変化を試すか。話し合ううち、えるは眞尋が何度も左右の手足を確認することに気づいた。

「まひまひ。初めてここへ来た人の聞き方じゃないよね」

眞尋は立ち止まった。唇を結び、何度か呼吸をしてから言う。

「嘘をついていました。私も、繰り返しています」

「やった!」

えるの声が弾み、クレアがすぐにたしなめる。

「喜んでいいことでしょうか」

「だって、仲間が増えたから。……私たちと同じように五回くらい?」

「私はもう、何回目なのか分かりません」

二人から長い息が漏れた。

「先輩だったんだ、ループの」

「じゃあ、私たちが繰り返してるって言った時に教えてくれればよかったのに」

「前にも言いました。その時のえるさんは『ドッキリじゃん』って」

「言うね、えるなら」

「クレアさんも疑っていました。最近になって、お二人だけ記憶を引き継ぎ始めたんです。それまでは毎回きれいに忘れていたので、途中から説明するのをやめました」

えるは眞尋の肩へ手を置いた。

「お待たせ。やっと、この次元に辿り着いたよ」

「本当に、お待たせですよ。嬉しいような、巻き込んでしまって複雑なような気持ちです」

記憶の終点を確かめ合うと、えるとクレアは下山の途中までしか覚えていない。眞尋だけは、帰りのバスへ乗った後まで覚えていた。

「私の最後の記憶は、大きなブレーキ音がしたところで終わっています。だから、これは推測ですけど――私たちは事故に遭ったんじゃないかと思うんです」

「じゃあ、その事故を止めないといけない?」

「止められるかは分かりません。でも、繰り返すたびに痛む場所が変わるでしょう。あの事故で傷つく場所と一致しているんじゃないかと考えました」

眞尋自身にも、痛みが出る回はあった。それでも黙って、百回を越えたあたりで数えることさえやめ、三人全員が無傷になる組み合わせを探し続けたのだという。

「無傷の回は何度かありました。でも、三人同時にどこも痛くない瞬間は、一度もありません。何も知らないお二人の前で全部済ませられれば、そのまま帰れると思ったんです」

「もっと私たちを信頼してほしかった」

「信頼して話した結果、前の私たちが『嘘っぽい』って言ったんだよね。ごめん」

「信じられない話なのは分かっていましたから」

三人は祠で口にした願いを思い出した。あまりに大きな願いだったから、こんな世界へ迷い込んだのか。原因は分からない。ただ眞尋は、事故が避けられないのなら、ここで無傷の未来を選び取れることは好機でもあると考えた。

「私、言いましたよね。お二人のためなら、いくら時間をかけてもいいって。本当に、いくらでも繰り返すつもりでした」

しかし、閉じた世界には限界が近づいていた。燃える前照灯も黒い箱も、長い反復の中で初めて現れたものだ。眞尋の感覚では、残されたやり直しは三回か、四回。

「お二人が何も知らないうちに終わらせたかったんです。巻き込んで、ごめんなさい」

「一緒に来たんだから、当たり前でしょう」

クレアが即座に答えた。

「眞尋ちゃんに何も起きてほしくないのは、私たちも同じです。一人でつらい思いを抱えてほしくありません」

「まひまひ、いい子すぎるよ」

「いい子って何ですか。だって、二人に何も起きてほしくないじゃないですか」

「えるなんて、記憶を持つ人が増えた時に『やった』って思っちゃったのに」

「私は、やっとこっちへ来てくれた、って思いました」

眞尋は、泣きそうな顔で笑った。何度戻っても、自分の記憶へ二人が追いつくことはなかった。今、その越えられなかった距離を、二人の方から渡ってきている。

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三人は祠の前へ戻り、残された選択を確かめた。

眞尋が瞬きをすれば、時間は巻き戻る。だが閉じた世界は限界に近く、反復できるのは、あと三、四回ほどしかない。三人が痛みを持たない一日を引き当て、その状態でループを抜ける。それが今、最も望みのある答えだった。

「もし二人が痛みを抱えた状態で終わっても、事故を知ったままより、何も知らずに戻った方がいいと思っていました」

眞尋は、二人に同じ苦しみを味わわせたくなかったと打ち明けた。

「私が何百回もしたことを、二人にもさせるなんて嫌です」

「つらかったね」

クレアが静かに言うと、眞尋は慌てて顔を背ける。

「やめてください。泣いちゃうので」

「ここから助かる方法はないのかな。残りの回で、新しい手がかりが見つかればいいけど」

「今あるのは、事故の断片らしいものと、痛みだけです。黒い箱の念では、三人が無傷でも助かる保証はないと言われました」

「保証がなくても、胸が痛いまま出るよりはいい。もう一回、やってみよう」

三人は手を重ねた。眞尋が瞬きをする。

閉じた視界が開くと、祠も、風の向きも、枝を渡る鳥の声も元に戻っていた。眞尋はすぐに二人の身体を確かめる。

「私はどこも痛くありません。二人は?」

えるは右足を、クレアは左足を押さえた。

「二人とも足ですか。歩けなくなったら大変ですよ」

「えるは飛べるから、足くらいならいいってことにしない?」

「だめです。踊ったりもできなくなるかもしれないでしょう」

「もっと悪いところを引く可能性もあるけど、まだやり直せるなら、三人とも無傷を目指そう」

クレアは「三人とも」を、ゆっくり言い直した。

「誰か一人だけ無事でも、出ないんですよね」

「はい。私だけ痛くない回もありました。でも、二人が痛いなら戻しました」

「今度は、まひまひが痛い時も戻るからね」

「えるさんたちが無傷なら、それでもいいんです」

「よくないよ。踊れなくなったら困るでしょう」

「それに、三人で来たんです。帰るのも三人です」

クレアの声は穏やかだったが、譲る余地がない。

眞尋は二人を見つめた。助けたい相手から、自分も助ける人数へ数えられている。それは一人で反復していた時には思いつけなかった、温かくて厳しい条件だった。

「分かりました。三人ともです」

「嘘つかないでね」

「嘘はつきません」

もう一度、眞尋が瞬きをする。

今度はえるの足が痛み、眞尋は頭を押さえた。

「頭は一番まずいでしょう」

「駄目です、この世界は。もう一回お願いします」

残りの回数が減るたび、同じ景色は少しずつ狭く感じられた。鳥の声まで秒針のように聞こえる。眞尋が何百回も一人で耐えた恐怖を、えるとクレアはようやく同じ重さで知った。

「怖かったですよね」

「怖くないふりをする方が、途中から楽になりました」

「じゃあ今は、怖いって言っていいよ」

えるが眞尋の肩へ腕を回す。

「怖いです。次で駄目だったらって考えると、すごく」

「えるも怖い」

「私もです。でも、三人で怖がれます」

三人はもう一度、手を重ねた。眞尋は指先に伝わる二人の温度を確かめ、瞬きをした。

世界が戻る。

えるとクレアは、互いの顔を見るより早く声を上げた。

「痛くない」

「私も、どこも痛くありません」

眞尋は何度も問い返した。

「本当に? 無理していませんか。嘘じゃないですよね」

「本当に痛くないよ。来たよ、この世界線」

「眞尋ちゃんは?」

眞尋は腕を動かし、脚へ力を入れ、胸の奥までゆっくり息を吸った。痛みはない。

「私も、大丈夫です」

「やっと森から出られるね、まひまひ」

三人は顔を見合わせた。喜ぶにはまだ早い。無傷は保証ではなく、扉の前まで来たというだけだ。それでも、一人では辿り着けなかった場所だった。

「まだ、実際にどうなるかは分かりません」

「でも、あとは信じるしかないよ」

「みんな幸せになれますように」

えるが改めて祈る。

眞尋は二人へ確認した。

「ループから出ます。大丈夫ですか?」

「うん。信じよう」

「はい。私も、自分のことを信じます。二人のことも」

最後にもう一度、三人の手へ力がこもる。

眞尋が瞬きをした。

閉じた世界に、けたたましいブレーキ音が響き渡った。

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気がつくと、三人は帰りのバスに乗っていた。

前方の車が、山道で無茶な運転をしている。バスはそれを避けようと大きく揺れ、窓ガラスが砕けた。炎が上がり、煙が噴き出す。遠くから近づいてくるサイレンを聞きながら、三人の意識は白く途切れた。

次に目を開けた時、天井には病院の灯りがあった。

「あれ、ここ……まひまひも、クレアもいる」

「私たち、山へ登って、ループを抜けて――そうですよね?」

病室へ入ってきた医師は、山道で大きな事故があったことを伝えた。バスは横転し、車内には割れたガラスや煙が満ちた。それにもかかわらず、三人は擦り傷こそあるものの、命に関わる怪我も、痛みが示していたような重傷もない。数日の検査入院で退院できるという。

「やった」

えるが声を上げ、クレアは大きく息を吐いた。

「本当だったんですね。夢みたいでしたけど、とにかく無事でよかった」

「まひまひが頑張ってくれたからだよ」

「私がどうこうじゃありません。三人で決めたからです」

「でも、眞尋ちゃんが自分だけ無傷の時に『これでいい』って抜けていたら、こうはなっていなかったかもしれません」

「そうだね。ありがとう」

眞尋は照れたように目を伏せた。

「本当に、誰にも何事もなくてよかったです」

全身から力が抜けると、今度は空腹を思い出した。あの弁当は事故に遭い、とても食べられる状態ではないだろう。

「さすがに、しばらく山登りは怖いね」

「退院したら、まひまひの家で料理パーティーをしよう」

「私たちがおもてなしします」

「おもてなしするなら、すみませんけど、うちじゃない方がいいです」

「それは確かにそうかも」

三人は顔を見合わせて笑った。

「場所はどこでも、料理は作りますよ。何が食べたいか言ってください。頑張って作るので」

「クレアさんの手料理なら、何でも嬉しいです」

「そんな大したものじゃないですよ。卵焼きは、けっこう自信がありますけど」

「めちゃめちゃ家庭料理だ。食べたい」

「えるさんは何をしてくれるんですか?」

「盛り上げ役」

「それも、おもてなしではありますけど」

「じゃあデザートを買ってくる。マフィンだって作れるよ。いつも作ってるし」

「お願いします。うまいものが食べたいです」

こんな話ができるのも、ちゃんと帰ってこられたからだ。眞尋はそれを確かめるように、何度か瞬きをした。

白い天井は変わらない。祠も、同じ風も戻ってこない。

「もうループしないよね」

「さすがに大丈夫。ほら」

えるも大げさに目を閉じ、開いてみせる。

「現代だ。病院だよ」

「数日は入院するみたいなので、えるさん、面白い話をしてください。暇になっちゃいます」

「いいよ。心理テストをいっぱいしよう」

「小学生の頃に読んだ、分厚い本みたいな?」

「そうそう。小さいのに分厚いやつ。星座ごとのあなたは、みたいなページまで載ってるの」

「心理テストなのに、星座まで入ってるんですね」

「誰かに持ってきてもらいましょう。電子書籍でもあるかな」

「自動販売機には、さすがにないよね」

「調べてみましょう。病院で三人一緒なら、それも楽しそうです」

何百回も繰り返された一日の最後に、三人は次の一日を約束した。

みんな幸せでありますように。

それは一番難しい願いなのかもしれない。だからこそ、一人で叶えようとしてはいけなかった。

窓から入る夕暮れの光の中で、眞尋はもう一度だけ瞬きをした。

閉じて、開いた瞼の先に、えるとクレアの笑顔が残っていた。