リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:一橋綾人/五木左京「#えりぶりシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=mkgAN44Uv88
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
一橋綾人
珍しい茸を自分たちの手で採り、料理に使うという美食の「原則」を掲げて左京を山へ連れてきた青年。伝説の茸を求め、冒険漫画のような勢いで探索に乗り出す。
五木左京
綾人の茸探しに付き合う青年。大仰な美食談には冷静に応じつつ、履き替え用の靴も用意して山へ来ている。
第一章動画で見る#
山へ向かうバスの窓から、緑の斜面が近づいてきた。
一橋綾人と五木左京がここまで来た目的は、ラーメンの具にする珍しい茸を探すことだった。
「いよいよ美食が板についてきましたね、我々」
「具材ともなれば、自分たちで取りに行くでしょう。自分の手で手に入れた食材しか使わない。それが我々のプリンシプルですから」
「そうでしたっけ」
「そうです。メンマだって竹から採りますよ」
「今日はやる気満々だ。伝説の茸、ハイパー松茸でしたか」
「捕獲レベル百三十五です」
「美食家というより、もうグルメ界の住人だな。取りに行こうぜ、左京」
「二人とも、そっち側なんですか」
笑っているうちに、バスは小さな停留所へ着いた。時刻表に並ぶ便は少なく、一日に三本も来ればよい方らしい。帰りの一本を逃せば、山中で長く待つことになる。
「これをタイムリミットにして、探索を始めましょう」
「山を登る準備はできてます?」
左京は綾人の格好を見て首を傾げた。
「ちょっとスーツで来ちゃったな、今日」
「山を舐めてません? その靴」
「履き替えは持ってきてます」
「そっちも土がついてる。生態系に悪いかもしれません。それに、その靴紐の結び方は靴擦れしますね」
「山に詳しいんですか、実は」
「実は詳しかったりするんですよ、私」
「一年前にも、散々詳しいアピールをした末にひどい目に遭ったような、うっすらした記憶がありますけど」
「大して登った経験もないのに、口だけだったと?」
疑わしそうな声を向けられながら、綾人は参道の先へ歩き出した。
「この辺りは重心の取り方が大事ですからね」
「かなり整備された道ですけど」
「先導します、先導」
道はよく踏み締められていたが、人の姿はない。木々の隙間から落ちる光が、湿った土の上で細かく揺れている。
しばらく登ると、古びた祠が現れた。綾人も左京も、そこに祠があるとは聞いていない。
「急に本物の祠が出てきましたね」
「お前が壊したんか?」
「壊しておきます?」
「罰当たりなこと言わないでください」
近くには、祀られている神の由来を示す看板もない。軒も戸もすっかり古び、長いあいだ手入れされていないようだった。
「ずいぶん荒れてますね。登山の無事を祈っておきますか」
「供え物はあります?」
「気持ちだけなら。山の神様、よろしくお願いします」
左京は五円玉を取り出した。
「ご縁がありますように、五円を。日本神話の神様だと仮定して、二礼二拍手でいいでしょう」
「多分ね」
二人は揃って頭を下げ、柏手を打った。
「これで絶対に無事になるでしょう」
「おそらく」
「急に確信が弱くなったな」
祠は何も答えない。軒の奥で、乾いた葉が風に擦れた。
二人はさらに先へ進み、茸の生えそうな場所を探した。
「普通に参道を歩いてたら、茸なんて見つからないんじゃないですか」
「でも、トリュフは人が踏みしめた土地に生えるらしいですよ」
「へえ」
「曖昧な情報ですけど」
「先に言ってください。怖いぜ」
足元や木の根を覗き込んでも、目当ての茸は見当たらない。
「ここにはないだけかもしれません。標高を上げながら探しましょう」
「茸ラーメンって、食べたことあります?」
「家で作った袋麺なら」
「秋口に限定で出す店、ありますよね。濃い味にも合う」
「最近、とうもろこしの冷やしを食べました」
「つるっとした器に入ったやつでしょう。あれ、おいしいんですよね」
「待て待て。今はラーメン雑談をしに来たんじゃない」
「話を始めたのは綾人君でしょう」
「茸の一本すら見つからないから、話が逸れたんですよ。出汁に山菜も加えたいですね」
「じゃあ山菜も探すか」
道の脇には、大きな洞窟もあった。入口の奥で淡い光を見つけ、二人の足が止まる。
「少年心をくすぐられる洞窟ですね」
「思った以上にでかい。でも私は大人なので、こういう所へ入ってはいけないと知っています」
「じゃあ行きますか」
「そうだな。やっぱり行くしかない」
「絶対、奥に金色に光る茸がありますよ」
「男の子心はくすぐられますけど、食べられるものかは別ですよ」
洞窟は思ったより浅く、五十メートル続く道も、光る茸も、光る苔さえなかった。
「ただの面白トンネルでしたね」
「トンネルですらない。さすがに茸も山菜も苔もなしか」
二人は落胆しながら外へ戻り、山頂を目指した。
木立の向こうに広い空が開ける。遠い町が薄い霞の下に広がり、日頃の仕事で固まった呼吸が、冷たい風にほどけていく。
「ヤッホー!」
「帰ってきましたよ、山彦が」
「うるさいよ」
「なかなかいい景色ですね。茸は見つかってませんけど」
「本題は何ともなってないですが、景色だけでも来た甲斐があります。日頃の仕事の疲れが取れますね」
「仕事のない日に、どうしてこんなに疲れなきゃいけないんだ」
「山頂へ着くと、登山する人って急に町を『下界』って呼び出すんですよ」
「自分を天上人だと錯覚するんですね。人がゴミのようだ」
「今、人間がゴミだと言いましたね。記録しておきます」
悪質な切り取りだと抗議しながらも、二人は探索を諦めなかった。天に近い場所ほど伝説に近いものがある気がする、と崖へ寄りすぎないよう木の根元や落ち葉の下を調べる。
「ないかな、ないかな。トンボがすごく飛んでる」
「危ないから、崖を舐め回すほど近づかないでください」
「舐め回るとは言ってません」
やがて二人は、ほとんど同時に目当てらしい茸を見つけた。
「ありました。これは、ハイパー松茸じゃないですか」
「本当にあった。これでラーメンを作るの、もったいなくなってきましたね」
「炭火で焼いて食べたい」
「半分は焼きましょう。残りは出汁にして、上には素揚げしたものを載せて」
「楽しみですね。適合剤の可能性があって、食べたら少しむきむきになるかもしれませんけど」
「それ、食材として大丈夫ですか」
茸を大切にしまい、二人は山を下りた。下山こそ一番危険だと声を掛け合い、祠には無事の礼を言う。
「ありがとうございます!」
左京が突然大きな声を出し、綾人が肩を跳ねさせた。
「急に叫ばないでください。怖いから」
「こうした方が、感謝の効果が深まるかと思って」
「普通にお礼をすればいいでしょう」
目的を果たし、帰りのバスにも間に合った。そう思ったところで、左京の左手が急に痛んだ。
「いてて。虫にでも刺されたかな」
「大丈夫ですか。まだ体力は残しておいてくださいよ」
「左手だから、ドラムに支障が出るな」
「少し休んで、ついでに出汁用の茸も探します?」
「スーパーエリートゴールデン松茸だけでは足りませんからね」
二人が手元を見た時、そこにあるはずの茸は消えていた。
「あれ? さっき山頂で一緒に見つけた茸は?」
綾人は不思議そうに首を傾げる。
「山頂って、どの時系列の話ですか。まだ見つけていませんよ」
左京は、目の前の祠を見上げた。
目的を果たしたはずの一日は、いつの間にか最初へ戻っていた。
第二章動画で見る#
瞼を開けると、二人は再び祠の前に立っていた。
左京は手元を見る。採ったはずの茸がない。下山した記憶も、バスへ乗った記憶も残っているのに、荷物も時刻も最初に祠へ来た時へ戻っている。
「我々、今、降りてきてませんでした?」
「普通に、今から登るところですが」
「待ってください。プリーズ。状況を整理します。スーパーなんちゃら松茸を採って、今、下山してきたはずです」
「ついにおかしくなりました?」
「茸もありませんね。逆に、何なんですか」
二人は再び山頂への道を歩いた。同じ木の根、同じ鳥の声、同じ会話のきっかけが現れる。少し先に何があるか知っている感覚だけが、現実の輪郭を薄くしていった。
「茸ラーメンって、限定で食べたことあります?」
綾人がまた同じ話を振った。左京は足を止める。
「その話、前にもしましたよね。私が最近、とうもろこしの冷やしを食べたと言って、綾人君が器まで言い当てた」
「そうでしたっけ」
「醤油にするか、半分は焼いて食べるかって話もしました」
「そうですね。茸で出汁を取った醤油ラーメンが望ましい。では、前は急げ、です」
「『前』って、どっちですか」
「一は全、全は一。もうトリコから離れたいな」
綾人が意図的に話を逸らしているようにも感じたが、左京はまだ追及しなかった。
歩きながら、今度は綾人が「少し賢い話」を持ち出した。
「トリュフは、人が踏みしめた土地にしか生えないという話ですか」
「それは賢そうで曖昧な話。トリュフじゃなくて、トムソンのバイオリン奏者という思考実験です」
ある朝、目を覚ますと、見知らぬ重病の音楽家と身体を繋がれている。その人は自分から供給されるものがなければ生きられない。本人の同意はなく、九か月後に臓器提供者が現れるまで、ベッドから動くことはできない。管を外せば自分は自由になるが、奏者は死ぬ。
「左京さんなら、外しますか?」
「九か月ですか」
左京は少し考えた。
「九か月くらいなら付き合ってもいい。世界的に有名なら、九か月後には何かしら返してくれるかもしれませんし」
「エリート交渉術だ」
「それは半分冗談です。普通にかわいそうでしょう」
「では、十年だったら?」
「十年で終わると分かっているんですか?」
「分かっている前提で」
「十年になると、急に話が変わりますね。一年くらいまでなら付き合えても、それ以上は考えたい」
「相手の命は助かるとしても?」
「命と九か月なら、釣り合わないと思います。でも十年なら、奏者の人生だけでなく、私の人生も変わる。助けたい気持ちと、私の時間を無断で使ってよいかは別の話です」
「命と比べると、何も釣り合わないように見えるのに、時間が十年になると考えてしまう。そこが面白いんですよね」
「答えのない思考実験だから、ということですか。しかし何の話だったんだ」
「非常に面白い話です」
穏やかな山道には不釣り合いな問いだった。だが知らない誰かの命に、自分の時間と身体をどこまで差し出せるかという話は、この山で起きていることへ少しずつ重なっていた。
不意に、声ではない念が二人の頭へ流れ込んだ。
――痛みは予感だ。それでも、解決の方法は一つしかない。
綾人が瞬きをする。
祠へ戻ると、今度は左京の胸の奥が痛んだ。
「心臓だけが痛い。たまにある程度の痛みですけど」
「ガチの場合は、ガチで心配するやつですよ。大丈夫ですか」
「さっき痛かった左手は、もう何ともありません。勘違いだったみたいです」
「心臓だけ痛い方が、普通に心配です」
「いっぱい運動したから、元気になったんでしょう」
「元気な人は心臓が痛いとは言いません」
左京は、先ほどまで祠を離れて参道を歩いていた気がすると綾人へ訴えた。
「これ、エンドレスしてません?」
「こちらの話です。茸を探しに行きましょう」
綾人はまた先を急いだ。
洞窟へ戻ると、先ほどまでなかった光が奥に並んでいた。二つの白い光は、車の前照灯のように見える。近くには割れたランプが燃え、岩肌へ左右対称の影を投げていた。
「何か燃えてる。熱くないですか」
「面白い気配がしますね。近づきましょう」
「怖い怖い。……まあ、行くか」
「車がここへ突っ込んで、爆発四散したんでしょうか」
「ほかの部品がない。今まさに事故が起きたなら、音もするはずです」
「上に穴があって、車が滑落してきたとか」
「それでも音がしなかったのはおかしい。変な影ですね。左右対称になってる」
「物があるから影ができるはずなのに、何の影でしょう」
綾人はそれに見覚えがあると言った。
「壺に見えるか、二人の横顔に見えるか、という絵ですか?」
「当たらずとも遠からず。ロールシャッハという心理検査です」
「確かに、それらしい形だ。しかし、どうしてこんな所に」
答えの代わりに、思念が落ちてきた。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
綾人が瞬きをし、また祠へ戻る。今度は左京の右手が、外傷もないのにはっきり痛んだ。
「昨日、ドラムを練習しすぎたかな」
「片手だけ酷使するドラムだったんですか?」
「あまりないかも。ちゃんと痛いな、これ」
二人は祠の戸や周囲を調べた。面白い道具も目当ての茸もなかったが、左京は別の場所で山菜を見つける。
「綾人君、見てください。グルメわさびです」
「自然界ではなかなかお目にかかれないやつだ。煮たらおいしそう」
「これもラーメンにしましょう」
「ところで、茸の限定麺って食べたことあります?」
「またその話ですか」
「舞茸を焼いて載せたものなら。今度、店を紹介しますよ」
「ぜひ行きましょう」
会話まで同じ輪を描きながら先へ進むと、参道の中央に黒い正方形の箱が現れた。画像の一部だけが欠けたような黒さと、自然界にはありえない直線を持っている。
「ああいうものは、触らない方がいいに決まってます」
「決まってるんですけど、配信を始めてから、こういうものへ挑んだ方が後で面白いと思うようになったんですよ」
「好奇心で命を賭けるのはやめてください。いいことか悪いことか、ぎりぎりの線です」
「爆発物じゃないことを祈って、近づいてみますか」
二人が距離を詰めると、箱から雑音交じりの声が聞こえた。
――一名は軽傷。二名、まだ車内に取り残されている模様。至急、応援を求む。
それに続いて、声ではない念が流れ込む。
――ブレーキ音の後、世界は収束する。無傷が揃ったとしても保証はない。それでも――。
綾人が瞬きをした。
祠へ戻った左京は、今度は左足を押さえる。これまで痛んだ左手、胸、右手はもう何ともない。反復のたび、痛む場所だけが上書きされている。
「さっきから、ことあるごとにこの祠へ戻っている。気のせいじゃないですよね」
「エンドレスしている、ということです」
「綾人君も分かっていたんですか」
綾人は、とうとう足を止めた。
「ええ。ぶっちゃけ、ずっとしています」
第三章動画で見る#
祠の前へ戻った左京は、今度こそ綾人をまっすぐ見た。
「何回くらいループしました?」
「左京さんが記憶を持つようになってからは、四回くらいですね」
「その前から、覚えていたんですね」
綾人は少し迷い、それから肩の力を抜いた。
「私は、多分もう五十回くらい。つい最近の四回から左京さんがわたわたし始めた、という感じです」
「それまでの私は、ずっと呑気に茸ラーメンの話をしていた?」
「ええ。同じ話を四十回くらい聞きました。後半は、綾人君が『うさぎの話』を始める前に、私から限定麺の話題を振って防ぐようになって」
「毎回、私を供えるかどうかで葛藤してたんですね」
「供える話は、その後です」
最初の一日、二人は普通に山頂へ着き、茸を採って下山した。帰りのバスへ乗ると、激しいブレーキ音が響き、綾人が瞬きをした。その瞬間、二人は祠の前へ戻ったのだという。
「左京さんが違和感を覚えるのは、山頂から下りる頃まででした。私は下山しきって、バスの中まで覚えています」
「黒い箱から聞こえた無線は、一人が軽傷、二人が車内に取り残されている、と言っていましたね」
「軽傷なのは、多分運転手です。残された二人は、私たちでしょう」
「つまり私たちは、バス事故に遭った後から、ずっとこの山の中にいる」
「事故を避けようと色々試しましたが、どうにも避けられない。今に至る、というわけです」
左京は、まだ一度もバスへ戻れていない。綾人がその手前で、自分の意思によって反復を起こしていたからだ。
「言わなかった理由の一つです。私が巻き込んで、振り回している側だと思っていました」
「そろそろスタッフが出てきて、ドッキリでしたと言われると思ってました」
「そうだったらよかったんですけどね」
「これ、ガチなんですか」
「少なくとも、ガチだと想定して動くべきでしょう」
左京も何度も祠へ戻った記憶がある。冗談で片づけるには、身体の痛みまであまりに具体的だった。
「どうすればいいんですか」
「まず、証明しましょう。今はどこが痛みます?」
「左足です」
綾人が瞬きをすると、世界はまた祠へ戻る。今度は左京の全身へ、一度に衝撃が走った。
「痛い。全身が痛い。立っているのもしんどい」
綾人は肩を貸し、呼吸が落ち着くまで待った。
「反復するたび、痛みが上書きされている。八つの行き先があって、その中には無傷もあるみたいです」
二人は、分かったことを一つずつ並べた。
事故そのものは避けられないらしい。身体の痛みは、現実へ戻った時に負う傷の場所と重なる可能性が高い。痛みがない回で反復を抜ければ、無傷で助かるかもしれない。ただし、黒い箱の言葉どおり保証はない。そして世界が形を保てるのは、あと三回ほどしかない。
「本当に運だけなんですね」
「一から三なら無傷の可能性がある。それ以外が何を意味するかも、実際に戻るまでは分かりません」
「今すぐ抜けることもできる?」
「できます。でも、全身が痛い状態で出るのは、かなり危ないでしょう」
「自分の痛みだけなら、今すぐ反復してほしい。綾人君は?」
「胸が痛みます」
「どちらも、この回で出るべきではないですね」
綾人は頷きながら、洞窟の前照灯や黒い箱など、今までなかった異変が増えていることを話した。左京が記憶を取り戻したことも含め、閉じた世界は破綻しかけている。
「自分で頬を殴っても、あまり痛くない。この世界は現実じゃない、ということですか」
「現実か非現実かは、いったん置いておきましょう。今は覚悟を決める方が大事です」
「目標は、許容できる部位――できれば二人とも無傷になること」
「その認識で合っています」
左京は身体を支えられながら、もう一度尋ねる。
「綾人君、本当に胸が痛いんですか?」
綾人は視線を逸らした。
「実は、嘘をつきました。私は今、どこも痛くありません」
「どうしてそんな嘘を」
「左京さんが全身を痛めているのに、私だけ助かる回で抜けるつもりはないからです。私はもう一度ループするつもりでした」
左京は、思考実験の問いがそのまま二人へ返ってきたことに気づいた。綾人は自分が無傷であることを隠し、左京が選択を諦めやすい形へ変えようとしたのだ。
「優しさゆえ、とは思います。でも、私は助かるんですよね。今出れば」
「私は高い確率で死ぬでしょう。だからといって、左京さんへ『私のために戻ってください』と強いるつもりもありません」
「情報は全部出し合いましょう。お互いに覚悟を持って、納得して結論を選ぶ。それが大事です」
「分かりました。ここからは、何も隠しません」
「続けるかどうかも、一緒に決めます」
綾人は頷いた。ようやく反復は、一人が背負うものではなくなった。
第四章動画で見る#
二人は祠の前へ座り込み、残された回数と身体の状態を見比べた。
今ここで反復を終えれば、左京は無傷で、綾人は事故の中で全身に傷を負う可能性が高い。もう一度繰り返せば、より悪い結果になるかもしれない。それでも、二人とも無傷になる余地は残っていた。
「私は全然、もう一回ループするつもりです」
「優しさゆえ、なんでしょうけど」
「優しさというか、全身をやられたら普通に死ぬ可能性が高いので」
「でも、このまま出れば私は助かる」
「そうでしょうね。だから、私から『戻ってくれ』とは強く頼みにくい」
左京はしばらく考えた。手足の傷なら何とかなるかもしれない、と口にすると、綾人はすぐに否定する。
「私は、手以外はかなり危ないと思います。脚でも出血量によってはまずい。胸と頭は駄目です。全身なら、なおさら終わりだと思った方がいい」
「それでも、あと三回くらいあるんですよね」
「おそらく。振り直して、胸、脚、頭、頭、頭と悪化する可能性もあります」
「でも、綾人君がいいのであれば、もうワンチャンス付き合ってもらってもいいですか」
「それは、私からお願いする方でしょう」
二人は互いの顔を見た。賭けるものは同じ命でも、同意なしに始まった反復とは違う。情報を共有し、危険を理解し、それでも二人で選ぶ。
綾人は姿勢を正した。
「そのギャンブルに付き合っていただくという同意を得たいと思う。よろしいですか」
「逆だろ。むしろ頼むわ」
「分かりました。では、瞬きをします」
瞼を閉じる。
何度も見た暗闇のあと、祠の前の光が戻った。
二人はすぐには結果を言わなかった。互いに手足を動かし、胸へ息を入れ、同時に確かめる。
「せーので言いましょう」
「せーの」
「私は痛くないです。綾人君は?」
「痛い。胸ですね」
「嘘はつかないと、改めて約束できますか」
「つきません。ここで嘘をついたら、できるものもできませんから」
「胸は、片肺が潰れた程度なら――」
「結構まずいです」
「そうですよね」
「まだ二回ほどできる。無傷になる可能性も、頭の中の感覚では半分くらいまで増えている。もう一回やりましょう」
「脚ならぎりぎり捨てられる、という話もなしです」
張りつめた空気を断ち切るように、綾人が笑う。
「今のうちに遺言でも考えます?」
「待ってください。いらない、いらない」
「我々は今から普通に帰って、マイクラをやるんでしょう」
「そうです。綾人君がいなきゃ始まらない」
「サーバーとしては、始まらなくもないけど」
「そこは始まらないと言ってください」
笑いは恐怖を消さない。だが次の瞬きを、死へ向かう合図ではなく、二人で未来を取り戻す行為へ変えてくれた。
「次は同時に確認しましょう」
「はい。いきます」
綾人が瞬きをする。
祠。木々。何度も戻った同じ空気。
二人は呼吸を止め、身体の端から端まで意識を巡らせた。
「せーの」
「痛くないです」
「私も――痛くないと思ったけど、嘘です」
「じゃあ、もう一回」
「冗談です。本当に痛くない」
左京の顔から血の気が引いた。
「今の冗談は、冗談にならないって言ったでしょう。嘘をつかないと約束したばかりですよ」
「ごめんなさい。でも、勝ちました」
「まだ分かりません。今が痛くないだけで、全部仮説なんですから」
綾人も両手を握り、脚を踏み出し、何度も確認する。
「本当です。どこも痛くない」
「私も、天に誓って痛くありません」
喜びが遅れて込み上げた。保証はなく、事故そのものを消せたわけでもない。それでも二人は、限られた回数の中で同じ目を引き当てた。
「何をこんなに盛り上がってたんでしょうね、我々」
「命がかかっていたので、盛り上がっていいと思います」
「この身体なら、もう一度茸を探せますね」
「私は二度とこの山へ来たくありません。早々に下山したい」
「茸は普通の松茸で作りませんか」
「店で買いましょう。お金を払って。その方がよほど安全です」
二人は祠へ向き直った。
「お邪魔しました」
最初に祈った登山の無事が、どの形で叶ったのかは分からない。この祠がよいものだったかさえ、判断はつかなかった。それでも礼だけは告げ、二人は茸を探さず、山を下りた。
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帰りのバスへ向かう道で、二人は、もし世界が今日終わるなら何を話すだろう、と考えた。
「明日死ぬと分かっている時の話にもなりますね」
「特別な話なんて、ない気がするんですよ。死ぬ瞬間まで、楽しい話をしていたい」
「それなら、うまいラーメンの話でもしますか」
「うまいラーメンを作って食べる。それさえできれば、結構満足かもしれません」
綾人は「納得」という言葉を選び、左京へ尋ねた。
「自分の人生に、納得しています?」
「多分、納得することは一生ない。一生、理想が尽きませんから。やりたいことはまだいくらでもあります」
「それでも?」
「今まで面白かったから、納得はできなくても許容はできる。綾人君は?」
「面白い経験で終われるなら、それはそれで悪くないと思います。できれば、このループも配信で話したいですけど」
「無限にネタにしたいですよね。こういう物語のゲームを作りたい」
「全世界の人が、遊んでみたいと言ってくれるでしょう」
「帰れたら、という話ですけどね」
「悪い方へ考えても仕方がない。絶対に帰りましょう」
「レッツ下山」
帰りのバスへ乗り、二人は反復を終えると決めた。無傷だと確かめた身体と、互いに交わした同意だけを頼りに、座席へ背を預ける。
綾人が最後の瞬きをする。
前方から激しいブレーキ音が響いた。無茶な運転をする車を避け、バスの車体が大きく傾く。視界が回転し、ガラスが割れ、炎と煙が上がった。祠で感じたことのない、本物の衝撃が二人を呑み込む。
遠くでサイレンが鳴っている。
次に綾人が瞼を開けると、白い病室の天井があった。
祠へは戻らない。
「散々な目に遭いましたね」
「綾人君、息してます?」
「すみません、寝てました」
「おはようございます」
二人は自分の身体を確かめた。擦り傷はいくつもあるが、手足は動き、胸も頭も痛まない。
「我々、生きてるみたいですね。どこか怪我してます?」
「擦り傷くらいです」
病室へ入ってきた医師は、あれほど大きな事故に巻き込まれたのに、二人がほとんど五体満足であることは奇跡だと告げた。数日間の検査は必要だが、その後は家へ帰れるという。
「本当に運がよかったですね」
「ありがとうございます。よかったです」
「カルテを見せてもらっても?」
「こちらにありますよ」
左京は医師が去るまで真面目な顔を保ち、扉が閉まるとベッドへ背を預けた。
「自分がこの立場になるとは思いませんでしたね。ベッドに寝て、誰かに助けられる側になるとは」
「さっきのバイオリン奏者みたいな話ですか」
「現実の話じゃないですよ」
「何か、変な記憶がある気がするんですけど。気のせいですかね」
「夢でなければ、すごい記憶になりました」
二人は顔を見合わせ、少し気まずそうに笑った。
「死に際の話までしちゃいましたね。助からないつもりで、ちょっと感傷的になってた」
「恥ずかしいな」
「でも、今思えばぎりぎり面白かった、くらいにはできます」
山で話した思考実験には、見知らぬ者同士が登場した。けれど実際に命を繋いだのは、互いを知り、互いの答えを聞ける二人だった。
「この流れで、物語のゲームを作ってくださいよ」
「導入はバスへ乗るところからですかね。誰かに会いに行く、とか」
「何かに似ている気がしますけど、いいものができそうです」
「完成したら遊ばせてください」
「展開を知った顔になるでしょうけどね」
綾人は窓の外を指した。
「見てください、この美しい空。生きて帰ってきたから見られるんですよ」
「茸はなくしましたけどね」
「また探しに行きます?」
左京は即座に首を横へ振った。
「しばらくは店で買いましょう。命より優先されるプリンシプルではありません」
「それより、退院したら、この病院の近くにあるうまいラーメン屋へ行きませんか」
「それは興味深い。まず食べに行って、それから自分たちでも作りましょう」
窓の向こうには、山で見たのと同じ青空が広がっていた。
閉じて、開いた瞼の先で、二人の時間は一度きりの速さを取り戻していた。