リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:猫屋敷美紅/夜牛詩乃/雪城眞尋「#夜猫部シャッハ」(企画表記「#よるねこシャッハ」)
動画:https://www.youtube.com/watch?v=87prlAFCBk0
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
猫屋敷美紅
とあるバンドでキーボードを鳴らす、夜猫部の一人。好奇心旺盛で、見慣れないものにもまず近づいてみる。山頂に咲く花を仲間への土産にしようと、詩乃と山へ向かう。
夜牛詩乃
同じバンドでベースを鳴らす、夜猫部の一人。遠足のお菓子を七千円分も用意するほど準備がよく、怖い場所では美紅と支え合う。花は四人分持ち帰りたいと考えている。
イツカ
山頂にあるという、持つ者に幸福をもたらす薬草を探している女性。長い黒髪と透き通るような白い肌を持ち、世間の流行には少し疎い。バスで美紅と詩乃に出会う。
第一章動画で見る#
山へ向かう路線バスは、幾つものカーブを越えていた。
窓の外では夏の緑が流れ、車体が揺れるたび、詩乃の抱えた菓子袋が賑やかな音を立てる。運転手を除けば、乗客は美紅と詩乃だけだった。
二人が山へ向かう理由は、頂に咲くという綺麗な花である。
「お揃いにさ、四つ持って帰りたいよね。それぞれのカラーの」
「持って帰ろう。二人にもお土産にしよう」
夜猫部の仲間まで含めて四人分。どんな花か、まだ写真で見ただけなのに、二人の中ではもう土産を渡すところまで予定に入っていた。
美紅は詩乃の荷物を見た。
「お菓子持ってきたの?」
「持ってきたよ。七千円ぐらい」
「五百円までだよ。ちょっと多いかもね」
「ちょっと多いか」
笑い声が、ほとんど貸し切りの車内へ広がる。二人は菓子を食べる音まで運転手に聞こえているのではないかと急に気にし始め、結局、高級なチョコレートを一つ運転手へ差し出した。
その時、途中の停留所から一人の女性が乗り込んだ。
長い黒髪。夏を忘れさせるほど白く、冷たさを感じさせる肌。女性は二人へ軽く会釈をして、少し前の席に座った。再び走り始めたバスの中で、彼女が振り返る。
「お二人とも、この先の山に行かれるのですか?」
「はい。お姉さんも行くんですか?」
「ええ。山頂に用事があって」
美紅と詩乃は顔を見合わせた。同じ目的地なら、一緒に登ればいい。お菓子なら信じられないほどある、と詩乃が胸を張った。
「いいんですか? 初対面の私が一緒に行っても」
「むしろ行きたいです。これも旅の醍醐味ですよね」
「出会いの奇跡」
戸惑いながらも、女性は小さく笑った。
「申し遅れました。私の名前はイツカと申します」
詩乃は美紅に「ベースから行きなよ」と促され、先に名乗った。
「とあるバンドでベースを鳴らしています。夜牛詩乃です」
「同じく、とあるバンドでキーボードを鳴らしています。猫屋敷美紅です」
二人が話す「バンドという部活」について、イツカは興味深そうに耳を傾けた。月に一度ほど皆で楽器を鳴らす集まりだと聞き、今度は二人の関係を尋ねる。
「お二人は、仲がよろしいのですか?」
「我々はもう、血が共鳴するぐらい」
「静脈と動脈がお互い握手してるんだよね」
「目に入れて、ぎりぎり痛いぐらいです」
表現の物騒さに反して、二人の声には隠しようのない親しさがあった。
一人で山に行くつもりだったというイツカは、そんな友人はいないと明かした。すると美紅と詩乃は、ためらいもなく自分たちが友達一号と二号になると言う。
「良いのですか? 私と友達になっても」
「きっと、私たちと出会うために待ってたんですよ」
「この出会いをね」
バスは山頂近くの小さな停留所へ着いた。時刻表に並ぶ便は一日に数本。次のバスは二時間後だった。
「二時間なら、お菓子パーティーすぐです」
「目的はお菓子パーティーではなく、山登りでは?」
イツカのもっともな指摘に、美紅は「お菓子パーティーをしながら山を登る」と言い直した。二歩進んでは座って食べる。それをワルツのように繰り返そうという、前へ進んでいるのか怪しい登山法である。
「私には経験がないのですが、ご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
「もちろんです。任せてください」
三人は本当に二歩進んで腰を下ろし、菓子を口へ運んだ。詩乃の吸引力にイツカが目を丸くする。晴れ渡る空の下、初対面だったはずの三人の笑い声は、すぐに山道へ馴染んでいった。
天気の話になると、イツカは雨というより雪に縁があると答えた。
「雪、大好き。雪だるま作れるし、かまくらも作れる」
「三人で雪だるま作りたいね」
「雪の中を掻き分けて、二時間ぐらいかけてTSUTAYAへ行きたい」
寒さには弱いと言いながら雪の中を歩きたがる二人を、イツカは不思議そうに見た。美紅は、苦手なこととやりたいことは同じ場合もあるのだと説明する。寒い場所から暖かい場所へ戻れば、その心地よさも増す。
やがて話題は、人間の暮らしへ移った。花のために山を登るのは珍しい、とイツカが言う。
「我々は部活なので、タイパもコスパも関係なく、目の前に困難があったらとりあえず行くんです」
「もっと人間が、こういうことをすればいいのにと思います」
「人間って、いつもインターネットを見てばっかり」
言い終えてすぐ、美紅は自分もさっきバスでSNSを見ていたと白状した。詩乃も動画を眺める手が止まらないと認める。
「お二人は、人間で?」
「もちろん。三百六十度、人間ですよ」
「目も二つ、口も一つ、足も二本あります」
「それで言ったら、私もそうなんですけど」
イツカの返しに二人は笑った。美紅は逆に、イツカから人間ではない香りがすると言う。肩甲骨のあたりから、骨のような、人ならざる気配がするのだという。
「でも、ご本人が人間と言うなら、詮索するのはやめましょう」
「なんだっていいんです。ただの記号です」
「友達は友達」
その答えに、イツカは静かに頷いた。
道の先が開け、古びた祠が現れた。周囲に人影はなく、木立の間から落ちる光だけが、ひっそりとした空間を照らしている。
「神聖な場所みたい」
「ここではショート動画を見ない方がいい気がする。スマホをしまおう」
スマートフォンを「四角い電話の箱」と呼ぶイツカに、美紅は目を輝かせた。機種変更に一緒に行こうと誘いながらも、まだ持っていない感性を大事にしてほしいとも言う。便利さと引き換えに失われるものもあるのだと、手放せない側の二人は真剣に語った。
祠を前にして、二人は戸を開けるべきか迷った。
「詩乃ちゃん、開けてきなよ」
「え、開けないです。美紅が行ったら開けると思ってた?」
「思いました」
結局、戸には触れず、代わりに供え物をすることにした。詩乃が取り出したのは、七千円分の菓子のうち三千円を占めるベルギー産のチョコレートだった。
「一度お供えしたものを撤回するのは、大人のレディとしてできないよね」
「そうだね。大人のレディだから置いておきます」
三人は祠の前で、それぞれ願いを口にした。
美紅は、花が見つかるように。詩乃は、天気が崩れず無事に帰れるように。そしてイツカは、二人との縁が続くように。
「続きますよ。山登りが終わった後も、週一で会いましょう」
「この人の週一は、本当に週一です」
「そんなに会ってくださるのですか?」
「せっかくの縁ですし。いろんなところへ行きましょう」
祠を離れてしばらくすると、道の脇に洞窟があった。先の見えない暗がりに、美紅は好奇心を向け、詩乃は露骨に身を引く。
「ちょっと気になる。何かあるかも」
「遠回りでも到着すればいい。暗いところ嫌だ」
どちらの意見を採るか、二人はじゃんけん代わりに数字を競った。三回勝負を終えても、結局は三人で固まりながら入る。内部はすぐ行き止まりで、宝も近道もなかった。
「何もないじゃん」
「でも、無駄は人生の宝」
「無駄な時間は人生の宝だね」
山頂には、青い空と遠くの山並みが広がっていた。そして詩乃が花を探すと、探していた花は四本どころか、群れを成して咲いていた。
「友達にもあげたい。自分用も持っていこう」
「イツカさんには一番綺麗なのをあげる」
「私からも、お二人に」
三人は選んだ花を交換した。イツカが探していた薬草かどうかは分からない。それでもイツカは、今の自分は幸せだから、この花が自分にとっての幸福の花なのだと言った。
「もし花が見つからなくても、二人と今日登れたから、もう幸せですよ」
「私も楽しいです」
記念写真を撮る頃、三人はとうとう互いの正体まで明かした。美紅はぬらりひょん、詩乃はがしゃどくろ、イツカは雪女。人間に擬態していた三人は、人と妖怪がどう共存するかを、冗談交じりに話した。
「みんなで美味しいご飯を食べればいい。下りたら熱烈中華食堂へ行こう」
「日高屋へ行こう。早く下りなきゃ」
三人は花を手に、笑いながら山を下りた。バスへ乗り、停留所へ着いた――はずだった。
「二人とのご縁が、これからも続きますように」
イツカの声がして、美紅と詩乃が目を開ける。
二人は再び、古びた祠の前に立っていた。
第二章動画で見る#
「あれ? さっきバスに乗って、下りてなかった?」
「山頂まで登りましたよね。花を見つけて」
手元を見ても、持ち帰ったはずの花は一輪もない。イツカだけが、二人の話を初めて聞くような顔をしていた。
「花というのは、これから山頂で見つけたいとおっしゃっていた花のことですか?」
美紅の胸に、鈍い痛みが走った。同時に詩乃は左手を押さえる。
「ちょっと胸が痛いような気がする。疲れたのかな」
「詩乃も左手がひりひりする。お菓子を持ちすぎた?」
イツカは二人を気遣った。荷物を持とうとする美紅へ、詩乃が礼を言う。二人は痛みの理由を登山疲れに求め、もう一度山頂へ向かうことにした。
けれど景色は、あまりにもよく知っている。
「さっきも見たよね。山頂に登って、花を取って、写真を撮って、バス停まで帰った記憶がある」
「今から登るのですよね?」
「寝てたのかな。夢だった?」
二人が一瞬で眠ったようには見えなかった、とイツカは首を傾げる。美紅は不安を笑い飛ばすように、「よい夢を見ていた」と言った。同じ楽しい一日をもう一度経験できるなら、得をしたと考えればいい。
山頂へ続く道は、先ほどより長く感じられた。
歩きながら、イツカが不思議な夢の話を始める。
病院のベッドで、見知らぬヴァイオリン奏者と管で繋がれている。管を外せば自分は自由になるが、奏者は死ぬ。次の提供者が現れるのは九か月後。それまで自由を手放せるか。
「九か月なら、いいかな。ずっとじゃないなら」
「奏者じゃなくても、答えは変わりませんか?」
「変わらないです。誰であっても、命だったら」
詩乃は、終わってしまうことや見えないもの、死ぬことが怖いと話した。相手にどんな希望があるかは分からない。それでも、自分の九か月でその未来を少しでも後押しできるなら、自分の自由はいらない。
美紅も迷わなかった。
「繋がれている以上、私は必要な存在なんだろうし。自分の九か月で隣の誰かが助かるなら、考えることもないですね」
九か月ではなく、十年、百年ならどうか。誰にも会えず、娯楽もなく、隣の相手しかいないとしたら。
「隣が美紅だったら、絶対にいる。起きてなくても、ずっと喋りかける」
「詩乃ちゃんを見捨てるなんて絶対できない。そんな一人でいたくないから」
「知らない人で無限の時間なら迷うけど、美紅だったら絶対にいます」
イツカは、二人の友情は温かくて素敵だと言った。
その瞬間、声ではない何かが三人の頭へ流れ込んだ。
――痛みは予感だ。それでも解決の方法は一つしかない。
イツカが瞬きをする。
「二人とのご縁が、これからも続きますように」
祠。供える前のチョコレート。持っていない花。
世界はまた、同じ場所へ戻っていた。
第三章動画で見る#
今度は、美紅の左足と詩乃の頭が痛んだ。前に痛んだ胸と左手は、何事もなかったように治っている。
「おかしい。二回戻ってるよ」
「もっと痛くなる前に帰ろう。花は折り紙で作って、これだったって言おう」
二人は山頂へ進まず、下山することにした。イツカは、自分も二人が心配だから一緒に下りると言う。
ところが、一本道だったはずの参道の脇に、見覚えのない洞窟が現れた。
「こんな洞窟、ありましたっけ?」
イツカは一人で様子を見に行き、白い顔をさらに青ざめさせて戻ってきた。中で何かが燃えている。何なのか確かめたいという彼女に、詩乃は怖がりながらも付き添うと決めた。
「イツカさんが気になるなら、一緒に行くよ」
「いいんですか? お体も優れないのに」
「この後、餃子一皿おごってね」
三人で洞窟へ入ると、割れたランプに火が灯り、車のヘッドライトだけが地面に転がっていた。車が通れるはずもない行き止まりで、二つの光が岩肌に不気味な影を映している。
山火事になってはいけない。イツカは二人を後ろへ向かせ、着物の裾を上げて火を踏み消した。
「足で消したんですか。ダイナミックで格好いい」
「着物で足を上げるところを見られるのは、少し恥ずかしいので」
消えた光の跡に残る影は、左右対称の目のようだった。イツカには狐の顔、美紅には叫ぶ人の顔にも見える。
「気づかなければ怖くない。鳥が集まって作った影だよ」
「もう見てしまいましたよ」
三人が洞窟を出ようとすると、再び念が流れ込んだ。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
イツカが瞬きをした。
祠へ戻った二人の体には、また別の痛みがあった。詩乃は胸、美紅は右手を押さえる。
断片的な言葉を、二人は必死に並べた。痛みは予感。解決の方法は一つ。時間が来れば影が実体を取り戻す。洞窟で待てば何かが分かるかもしれないが、実体を持った影と対面するのも恐ろしい。
「何も包み隠さず、イツカさんに話そう」
二人はまず、自分たちが妖怪であると告白した。
「猫屋敷美紅と夜牛詩乃は、妖怪でした」
「今、言っていいんですか?」
「ここには三人しかいないから。もう一つ、私たちはさっきからループしています」
最初に山頂へ登り、下山したところで祠へ戻ったこと。その後も、登っても下りても同じ場所へ戻されたこと。別の繰り返しでは、イツカが雪女だと教えてくれたこと。戻るたび、痛む場所が変わること。
「今は四回目だと思います」
イツカは話を聞き終えると、ひとまず山頂を目指そうと言った。
歩き始めた三人の前に、今度は黒い正方形の箱が置かれていた。継ぎ目も用途も分からず、過去の繰り返しにはなかったものだ。
「あれは、でかいカステラだよ」
「道に落ちているものは食べない方がいいです」
三人が箱を避けて進もうとした時、雑音混じりの声が聞こえた。
一人は軽傷。三人はまだ車内に取り残されている。至急、応援を求む。
続いて、念が頭を貫く。
――ブレーキ音の後、世界は収束する。無傷が揃ったとしても保証はない。それでも。
イツカが瞬きをする。
第四章動画で見る#
祠へ戻るたび、イツカが唱える願いは同じだった。
「二人とのご縁が、これからも続きますように」
しかし、その声は最初より重く聞こえる。
今度は詩乃の右足と美紅の左足が痛んだ。二人はイツカから少し離れ、これまでの出来事を整理した。
洞窟のヘッドライトと燃えるランプ。無線のような声。黒い箱。ブレーキ音。そして、事故を予告するように場所を変える痛み。
「三人のうち一人が軽傷って言ってた。イツカさんなのかな」
「だから、ループしてくれてる?」
「でも無限には戻れない気がする。世界が変になってきてる」
二人は、イツカの様子が周回を重ねるごとに沈んでいることにも気づいていた。意を決して戻り、彼女に尋ねる。
「イツカさんは、ずっとここにいるんですか?」
「この辺に住んでいるわけではありません。でも、違う意味でなら、ずっとここにいるかもしれません」
イツカは視線を伏せた。
「私も、この繰り返す世界にずっといますから」
美紅と詩乃は、真相より先に、彼女の孤独を思った。
「お揃いだね。つらかったよね」
「私たちは四回でこんなに怖いのに、ずっとなんて」
予想もしなかった言葉を受けたイツカは、二人は本当に優しいのだと呟いた。
彼女が覚えている最後の景色は、バスの中だった。三人で下山し、帰りのバスへ乗った。大きなブレーキ音がして、目を開ければ祠の前にいた。
「私は百を超えたあたりから、数えることをやめました。今が何回目かは分かりません」
最初は偶然だった。何十回か繰り返すうち、イツカは自分の意思で世界を戻せると気づいた。美紅と詩乃は毎回、記憶を失って同じ一日を過ごした。祠で笑い、山頂で花を見つけ、バスへ戻る。その結末を変えようと、イツカだけが覚え続けた。
だが、最近になって世界は崩れ始めた。
二人が記憶を保つようになり、洞窟に車の残骸が現れ、道には黒い箱が置かれた。長すぎる参道も、以前はなかった。そしてイツカにも、残された繰り返しがもう多くないと分かっていた。
「繰り返しの世界が終われば、私たちは本来の世界へ戻されるのだと思います」
「本来の世界の私たちは、どうなってるんですか」
イツカは答えられない。ただ、二人の体に現れる痛みが、本来の世界へ戻った後の傷と繋がっている気がすると話した。
繰り返しの中には、美紅だけが痛くない時も、詩乃だけが痛くない時も、イツカだけが痛くない時もあった。三人全員が痛まない状態を引き当てるまで、彼女は何度も世界を戻してきた。
「だから、その瞬間になるまで、何度も何度も繰り返してきたのです」
「ありがとう」
「気づけなくて、ごめんなさい」
「謝らないでください。私がしたくてしたことです。後悔はしていません」
イツカは、あと四回ほどが限界だと告げた。その中で三人とも無傷になれなければ、せめて二人だけでもと口にする。
「それは駄目。一緒に」
「三人でいい」
美紅と詩乃は即座に言った。
イツカが守ろうとしてきた二人は、もう何も知らずに守られるだけの存在ではなかった。
第五章動画で見る#
痛みを決める数字は八つあった。小さな数字なら無傷、大きな数字ほど深刻な痛みに繋がる。繰り返しの中で強い共鳴が起きれば、無傷になる範囲が広がることも分かった。
選択肢は二つ。このまま限界まで繰り返し、三人の無傷を狙うか。今の状態で世界から離脱するか。
「残り数回なら、まだ繰り返せます」
「やりましょう。やれることがあるなら、やらなきゃ」
イツカが瞬きをする。
最初の繰り返しでは、美紅だけが無傷だった。詩乃とイツカは全身が痛む。
「痛いよ」
「繰り返しましょう。まだ回数は残っています」
「美紅さんも、それでいいですか? 無傷なのに」
「もちろん」
世界が戻る。
次は、詩乃の左足と美紅の全身が痛んだ。イツカは無傷だった。
「今戻れば、イツカさんは多分無事だよ」
「私が何のために、何百回も繰り返してきたと思うのですか」
イツカの声には、初めて強い感情が滲んだ。
「お二人はもう、私にとってかけがえのない友ですから」
「嬉しいよ。でも、まだ繰り返せる」
「次できっと」
再び、瞬き。
三度目、美紅と詩乃には痛みがなかった。しかし、イツカには痛みが残った。
「二人とも、どこも痛くないんですよね」
「いや、痛い。すごく痛いから、もう一回」
「さっき元気だとおっしゃっていたじゃないですか」
「から元気です」
イツカは、繰り返せるのは残り一回だと告げた。ここで離脱すれば、美紅と詩乃は無傷で帰れるかもしれない。次へ進めば、二人に深い痛みが戻るかもしれない。
「本当に後悔しませんか?」
「これで助かって、イツカさんが助からなかったら、ずっと後悔し続ける。そっちの方が嫌です」
それでもイツカは、二人を助けることこそ自分の唯一の望みだと言った。
美紅は、その言葉の奥を確かめる。
「本当に、私と詩乃ちゃんが無傷で出ることだけを望んでるなら、その願いを叶えたい。でも、一ミリでも三人で一緒に帰りたいと思ってるなら、それに賭けたい」
詩乃も言葉を選びながら続けた。
「三人で出たいっていう自分のエゴを押しつける気もします。でも、私たちだけ助かってほしいって気持ちに少しでも自己犠牲が絡んでいるなら、絶対にもう一度挑戦したいです」
「一パーセントでも、三人で一緒にいたい気持ちがあるなら」
イツカは唇を噛んだ。
「そんな言い方、ずるいじゃないですか。お二人と一緒にいたくないなんて、思うわけがないじゃないですか」
「じゃあ、やりましょう。最後かもしれないけど」
「どんな結果になっても後悔しないと、ここに誓います」
詩乃は笑い、美紅の手を取った。
「人間も妖怪も、どの生き物も、自分の人生で踊っているだけですから」
「最後まで三人で踊りましょう」
「一緒だったら、怖くないですよ」
イツカは長い間二人を見つめ、やがて頷いた。
最後の瞬き。
共鳴の結果、無傷になれる数字は五つまで広がった。残る三つを引けば、痛みが戻る。
美紅の指が震える。
「美紅、大丈夫だよ。どれになっても一緒だから」
「ずっと一緒だよね」
「一緒に振ろう」
二人は同時に運命を選んだ。同じ数字が並び、夜猫部の二人は思わず笑う。
やがて、三人は自分の体を確かめた。
「痛くないです」
「どこも痛くない。本当に元気」
「イツカさんは?」
「私も、今度は本当にどこも痛くありません」
張り詰めていた空気がほどけた。三人は声を上げ、互いの無事を何度も確かめる。
「お待たせしました」
「いっぱい繰り返してくれて、ありがとう」
「そんな。私こそありがとうございます。私と縁を紡ぐことを、諦めずに追い続けてくれて」
もう世界は限界を迎えている。三人は手を取り合い、離脱を選んだ。
「熱烈中華食堂へ行くぞ」
「三人で行くぞ」
イツカが最後の瞬きをした。
エピローグ動画で見る#
世界にブレーキ音が響き渡った。
三人を乗せたバスが、無茶な運転をする車を避けようと山道を外れる。割れるガラス。燃え上がる火。巻き上がる煙。遠くから近づくサイレン。
美紅と詩乃が次に目を開けた時、頭上には病院の白い天井があった。
隣のベッドのそばに、先に目を覚ましていたイツカが座っている。
「目が覚めましたか?」
「戻ってきた」
「事故のこと、少しだけ覚えてる」
イツカは医師から聞いた話を伝えた。事故はひどく、三人とも助かったこと自体が不思議なほどだった。それなのに、体にはほとんど傷がない。
「お二人とも、痛みはありませんよね」
「ないです」
「私もない」
「あれだけ大きな事故で三人とも無傷に近いなんて、奇跡に違いないとお医者様が」
美紅は詩乃へ顔を向ける。
「うちらの絆ですね」
「これが絆の力ですか」
検査入院は必要だが、検査が終われば三人とも退院できるという。
「じゃあ三人で、病院ライフを楽しもう。お菓子を持ち込んで」
「病室で許されるんでしょうか?」
「外出許可をもらって、外で食べたいという意味です」
慌てて言い直す二人を見て、イツカが笑った。祠の前で同じ願いを口にし続けた彼女が、ようやく見せた、未来へ続く笑顔だった。
「本当に、お二人はとても楽しい方々ですね」
「これからも、どうか縁を続かせてください」
「こちらこそ」
「もちろん。週一で会いましょう」
窓の外で日が暮れていく。
二人とのご縁が、これからも続きますように。
願いはもう、繰り返すための合図ではなかった。