リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:PL フミ・長尾景/DL 雪城眞尋「#フ景罪シャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=yTvmvQlDokc
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
フミ
自らを神と称しながら、路線バスを使い、スマートフォンの電波や夕食も気にする「庶民派の神」。長尾の任務に同行して山へ向かう。
長尾景
神の力を必要とする任務を受け、「信頼できる神」としてフミを選んだ青年。帰りのバス時刻を確かめ、二時間での往復を見込んで山頂を目指す。
第一章動画で見る#
「信頼できる神を連れてこい」という任務に、長尾が選んだのはフミだった。
神なら一足で着けそうなものだが、二人は古い路線バスに揺られている。
「神様のお迎えにしては、普通の市営バスみたいだね。もっと特別な迎えが来ると思った」
「ちょっと待ってください。フミさんこそ、神の力で山頂まで転移できないんですか。なんで俺たち、バスに乗ってるんでしょう」
フミは当然のように胸を張った。
「我は庶民派の神だから」
「庶民派の神。本当に大丈夫かな、この神で。今回、神の力が重要らしいから、別の人に頼めばよかったかもしれない」
「何とかなるよ。長尾さんは任務に慣れてるんでしょう」
「慣れてはいますけど。とりあえず、行ってみますか」
景色が山道へ変わり、やがてバスは小さな停留所へ着いた。二人が時刻表を覗き込むと、日に数本しか便がない。
「少ない。登って降りて、二、三時間はかかるでしょうから、この便に合わせるのがよさそうです」
「逃したら?」
「二時間後。さらに逃せば夜ですね」
「絶対に遅れられないじゃん。夕食に間に合わなくなる」
長尾はスマートフォンを見て、電波が一本も立っていないことにも気づいた。
「強制的にデジタルデトックスです」
「ポケットWi-Fiを持ってくればよかった」
「元の電波が来てないのに、ポケットWi-Fiだけ繋がるわけないでしょう」
「スマホが使えないと、もう駄目だ。何も見られない」
「神のくせに、ずいぶん俗世っぽいことを言いますね」
「神にも現代文明は必要なんだよ。で、目的地は?」
長尾が指さしたのは、見上げるほど先にある山頂だった。
「この山の、一番上です」
「バスじゃ行けないの?」
「行けるなら降りてません。ここから歩きます」
「山登りがあると知ってたら、もっと登りやすい格好で来たのにな」
「喋っていても時間は減ります。二時間で帰ってこないと」
「分かった、行く。任務より夕食のために急ごう」
不揃いな石段は、登り始めから容赦がなかった。整備されていると言えなくもないが、段差は大きく、湿った土が靴底へ貼りつく。
「これ、ぎりぎり階段と呼べるくらいだろう」
「でも、一応手すりはあります」
フミは数段上がったところで立ち止まり、扇ぐように手を振った。
「フミ様は、山なんて登らないんだけど」
「参られる側ですもんね。でも今日は任務の同行者です。最近、運動してます?」
「神は運動しなくても神だからね。神を働かせるなんて、不敬じゃないか?」
「健康のための散歩です。長く生きてるんだから、少しくらい歩いた方がいい」
「年齢の話をしようとした?」
「してません。フミ様はいくつなんですか」
「その話はやめよう。長尾さんこそ、任務でこういう険しい道へ行くの?」
「ありますよ。慣れていても、道を見て萎える気持ちは変わりませんけど」
湿った風が止まり、石段の上へ熱がこもった。
「暑い。最近の気温、おかしいだろう」
「天気の話をする近所の人みたいになってますよ」
「長尾さん一人で行ってきて。我はここで待つ」
「それじゃ意味がないんです。任務の説明をしたでしょう」
「下りは車を用意して」
「ここまで車で来られるなら、最初からそうしてます」
「アイスが食べたい。ハーゲンダッツ」
「下山したら買います。それだけ言えるなら、まだ歩けますね」
長尾は笑いながら水筒を渡し、フミが飲み終えるまで足を止めた。文句を言いながらも、フミは長尾が先へ行きすぎると必ず同じ段まで追いついた。
やがて木々が少し開け、その奥に苔むした祠が見えた。
「祠じゃん。これか」
フミがまっすぐ近づこうとすると、長尾は反射的に腕を伸ばした。
「フミさん、待ってください。いきなり触って壊したりしませんよね」
「我を何だと思っているんだ。神だからこそ、こういう場所の扱いは心得ている」
心外そうに眉を上げながらも、祠へ伸ばすフミの指先はひどく慎重だった。
第二章動画で見る#
祠の戸は少し開き、内部の札は崩れかけて読めなかった。周囲を見ても長く手入れされた様子がなく、祀られたものの気配も強くない。
「ずいぶん荒れているな。長い間、誰も来てないみたいだ」
「ではフミさんが掃除してください。神同士、放っておけないでしょう」
「長尾さんが絶対に壊すと言うから、我がやるしかないか」
フミは埃と枯れ葉を払い、戸を傷めないよう周囲を整えた。
「ついでに供え物もしておこう。こういうのは礼儀だからね」
「何を持ってきたんです?」
「コーラ」
「神様ってジャンキーなんですね」
「おにぎりでもいいけど、普通にコーラは嬉しいだろう。我だって今飲んでる」
「じゃあコーラでいいでしょう」
フミは飲みかけではなく、開けていない缶を祠の前へ置いた。
「掃除して、供え物までしたからには、願い事の一つや二つ叶えてもらわないと」
「供えるのは神への礼儀でしょう。見返りを要求する神ってどうなんですか」
「供え物をしたら、お願いくらいしてもいい。二礼二拍手で――何かいいことが起きますように。帰りの車が現れろ」
「それは本当にいい。これできっと、帰りは車が迎えに来ますね」
「さくっと任務を終えて、さくっと帰ろう」
「祠だけに、ぼちぼち行きますか」
「黙れ」
祠の先には大きな洞窟があった。
「フミさん、見てください。思ったより大きい。人の手が入ったものですかね」
「暗いな。任務には関係ないでしょう」
「奥に別の祠があるかもしれません。こういう洞窟、少年心がわくわくしません?」
「全然。洞窟で喜ぶのは小学生だろう」
「秘密基地みたいでいいじゃないですか。少しだけ入りましょう」
「明かりもないよ」
中へ入ると、洞窟はすぐ行き止まりだった。奥へ続く道も、祠も、崩れそうな場所さえない。
「何もないですね」
「だから言っただろう。秘密基地にするなら勝手に使いなさい」
「ちょっと憧れますけど、これは『さぼらず山頂まで行け』ということかもしれない」
「ここに何かあれば、もう歩かずに済んだのに。仕方ない、行こう」
雑木林を抜けると、ようやく山頂へ着いた。青空と見晴らしのよい景色はあるが、任務の対象らしいものは何もない。
「空が広い。きれいだけど――悲しいお知らせです。何もありません」
「役所は、てっぺんに何かあると言わなかった?」
「言ってました。もしかして俺、役人にいじめられてる?」
「心当たりは?」
「仕事の結果は出してますけど、その過程で色々やらかしてはいます」
「嫌われるようなことをしたんじゃないか。帰ったら、そんな役人は叩いておきなさい。神まで稼働させたんだから」
「稼働費も請求しないと」
「コーラ一年分なら、まんざらでもない」
「冷蔵庫に入りませんよ」
帰りのバスまでは、まだ時間があった。今から下っても停留所で待つことになる。
「昼飯でも食べますか」
「店なんてなかっただろう」
「弁当を作ってきました。『長尾キッチン』、本日のメニューはチーズ入りのお食事フレンチトーストです」
「山で急に洒落たものを出すな。いただきます」
フミは一口食べ、悔しそうにもう一切れ取った。
「おいしい。料理までできるなら、任務より店を開いた方がいいんじゃない?」
「フミさんも料理するんですか」
「自分の分くらいは作る。神を何だと思っている」
「俺、最近まで料理は大層なものだと思ってたんですよ。中華鍋を振って、包丁を高速で動かして」
「それしか料理の映像を知らなかったの?」
「やってみたら、フレンチトーストは意外と簡単でした」
「じゃあ全部ちょうだい。無駄足だったんだから」
「俺の分は? フミさんは山頂の空気でも食べててください」
「空気では腹は膨れない。我は山に登っても、そんなに感動しないんだ。みんな、どうして山へ登るの?」
フミは、山が好きだという友人の話を始めた。
「我の持論を言っていい? 山が好きなんじゃなくて、山好きの男と一緒に登りたいだけ説」
「あらゆる方向に性格が悪い」
「山ガールにしか刺さらないよ。その友達、本当に山好きな人と結婚したんだ」
「いい話じゃないですか」
「だから、本当に山が好きな人もいるんだろうね。我々は興味がないので、空気とフレンチトーストを楽しもう」
「結局、空気も楽しむんですね」
食事を終え、時間を見計らって二人は下山した。祠も洞窟も通り過ぎ、帰りのバスへ乗った。任務は肩透かしでも、一日は無事に終わったはずだった。
ところが次にフミが目を開くと、祠の前に立っていた。長尾の袋には、山頂で食べたはずのフレンチトーストが手つかずで残っている。
「それ、山頂で食べたはずだ。どうして元に戻っている?」
「食べてませんよ。俺たちは今、祠へ着いたところです。どうして中身を知ってるんですか」
「我は掃除をして、コーラを供えて、山頂でそれを食べた。一緒に下山して、バスにも乗った」
長尾は疑いながら包みを開き、減っていない枚数を数えた。
「体調、悪いですか?」
「すこぶる元気だよ。ただ、もう登りたくない」
「まだ登ってません。役所が嘘をつくはずはないし、山頂には何かあるはずです」
「なら一度だけ登り直す。何もなかったら、今度こそ我の言葉を信じなさい」
「フミさんと役所、どちらが正しいか確かめましょう」
「我と役所を同じ秤に載せるな」
再び石段を進みながら、長尾は会話が尽きてきたとこぼした。
「失礼なことを言うな。ずっと楽しい会話をしているだろう」
「フミさん、日常的に俺の話をちゃんと聞いているか怪しいでしょう。今も上の空だし」
「では、難しい話でもしてみなさい」
長尾は、トムソンのバイオリン奏者という思考実験を語った。
病院で目覚めると、見知らぬ有名な奏者と管で繋がれている。九か月後に提供者が現れるまで繋がっていれば、その人は助かる。外せば相手は死ぬが、自分は自由になる。
「フミさんなら、奏者を見捨てますか?」
「我が死なないなら助ける。動けないだけなら、九か月くらい自由を失ってもいい」
「自分が死ぬ条件なら?」
「管を切る」
「そこははっきりしてるんですね。俺も、相手が知らない人で、自分が死ぬなら外すと思います」
「知り合いでも、相手によって答えは変わらないかな。自分が死なないなら切らない。九か月は長いし、収入がなくなるなら考えるけど」
「急に現実的な話になりましたね」
「それでも命には代えられない。正解はなくても、何を守りたいかは分かる問いだよ」
その時、声ではないものが頭へ流れ込んだ。
――痛みは予感だ。それでも、解決の方法は一つしかない。
第三章動画で見る#
声ではない思念が「痛みは予感だ」と告げ、長尾が瞬きをすると、二人はまた祠の前へ戻された。
今度はフミの頭に、傷のない内側から鈍い痛みが残っている。
「頭が痛い。寝不足かな」
「大丈夫ですか。山頂までは、まだもう少しかかりますよ」
フミはこめかみを押さえながら、長尾の荷物を指した。
「一つ確認していい? フレンチトーストを持ってきているだろう」
「どうして知ってるんですか。持ってますけど」
「減ってない。我らは山頂で一緒に食べたのに」
「食べてませんよ。俺たちはバスを降りて、今この祠まで来たところです」
長尾の顔には、本当にその先の記憶がない。
「また忘れたのか。山頂には何もなかった。だから、もう登るのはやめよう」
「任務を放り出すのは賛成できません。上に何かあるから、フミさんはそう感じるんじゃないですか?」
「逆だ。何もないと知っているんだよ。いったん下山しよう」
「フミさんを連れてきたのは、そういう勘を頼りたかったからでもあります。分かりました」
二人は来た道を戻った。
途中にある洞窟は、行きに確かめた時には何もなかったはずだ。だが今は、奥で何かが燃えている。
「フミさん、中で燃えてません?」
「燃えてるな。行ってみよう」
今度はフミの方から近づいた。割れたランプに火が灯り、車のヘッドライトだけが岩の上へ転がっている。その光は、岩肌へ巨大な左右対称の影を作っていた。
「車のライトだ。どうして山の洞窟にあるんだろう」
「それより、この影。俺には角のある魔物に見えます」
「どこが? 我には、そうは見えない」
「右側の輪郭が顔で、上が角です」
「我には翼を広げた鳥みたいに見える。同じ影なのに、ずいぶん違うね」
長尾は、左右対称という特徴から心理検査を思い出した。
「ロールシャッハ・テストって知ってます? 白い紙へインクを垂らし、二つ折りにして開く。できた模様が何に見えるかを見るものです」
「セラピーで使うようなもの?」
「そうです。この影も、紙を開いたみたいでしょう」
「長尾さんには魔物、我には鳥。どういう心理なんだろうね」
答えの代わりに、声ではない念が二人へ届く。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
長尾が瞬きをする。
祠へ戻ると、フミの頭痛は消え、代わりに胸の奥が痛んだ。
「痛みが移った。今は胸だけだ」
「また祠ですね。掃除をして、コーラを供えて――」
フミがフレンチトーストの中身まで言い当てると、長尾はまた初めて聞くように驚いた。
「なんで知ってるんですか?」
「また記憶が消えている。長尾さんが偽物なのか?」
「本物です。長尾景です」
「上に行けば頭が痛くなって、下へ行けば胸が痛む。何度もここへ戻ってきているんだ」
「恋をすると頭が痛くなる、みたいな話ですか?」
「そんな声で言えば、ありそうに聞こえるな。違う。我は二回も山頂へ行った」
「すこぶる元気だと言ってたでしょう。任務を終えないと、バスの時間もまずい」
「長尾さんだけ行きなさい」
「神様を連れていかないと意味がないんです。一緒に行く意味があるかどうかを確かめに行くんですよ」
フミは長尾の説明を聞きながら、会話そのものを証拠にできないか考えた。
「では、ここでフレンチトーストを食べよう」
「一回、気分をリセットしますか。チーズ入りです」
長尾は、料理は中華鍋を振り包丁を高速で動かす大層なものだと思っていたが、自分で作ると意外に簡単だった、と語った。
「その話も前に聞いた」
「俺、どこかで配信しましたっけ?」
「今日、山頂で我に話したんだ。普段から我との会話を適当に聞き流していたわけじゃないよね?」
「耳をかっぽじって、ちゃんと聞いてますよ」
まだ口にしていない言葉まで先回りされ、長尾の顔から疑いが少し消えた。
「次の俺が忘れても分かるように、手へ書きましょう」
二人は油性ペンを取り出し、掌に「俺は一回、山頂に登りました」と書いた。
「片方だけ覚えているなら、覚えている方が説明する。疑っても、最後まで聞く。これを約束にしよう」
「分かりました。忘れた俺にも、同じことを言ってください」
もう一度、山頂へ向かう途中、参道の中央に黒い正方形の箱が現れた。そこだけ空間を切り抜いたように黒く、明らかに自然の景色から浮いている。
「引き返そう」
「一応、調べた方がいいでしょう。俺が見てきます」
長尾が箱へ近づくと、内部から雑音交じりの声が聞こえた。
――一人は軽傷。二人、まだ車内に取り残されている模様。至急、応援を求む。
続いて、思念が流れ込む。
――ブレーキ音の後、世界は収束する。無傷が揃ったとしても保証はない。それでも――。
長尾が瞬きをする。
祠へ戻ると、掌に書いた文字は消えていた。フミの胸の痛みもなくなり、今度は右手が疼いている。
「長尾さん、手を見せて。書いた文字がない」
「ええ。前の回で書きましたから。今の手には残りません」
「覚えているの?」
長尾は、フレンチトーストを何度食べたかまで答えた。
「やっと、ほんものの長尾さんが戻ってきた」
「いやあ、これは大変だ。何が起きてるか、分かりますか?」
「分かっていないから聞いているんだ」
「ループしてますよね」
「それは分かる。でも、今までの長尾さんは覚えていなかった」
長尾は観念したように息を吐いた。
「実は、もっと前から反復を覚えています。俺だけで解決できると思って、黙って何十回も試しました」
「我を信用していなかったの?」
「巻き込みたくなかったんです。でも結果として、何度も同じ危険へ連れてきた」
「我が記憶を持ち始めたのは四回ほど前。残りの周回は、長尾さんだけが知っていたんだね」
「はい。突然フミさんが記憶を持ち始めた時は、正直かなり驚きました」
フミの怒りはすぐには消えなかった。それでも黒い箱を睨む視線は、長尾と同じ方向を向いていた。
「あとで叱る。今は、知っていることを全部話しなさい」
第四章動画で見る#
「フミさんは四回。俺は、もう五十回くらいループしています」
長尾は、とうとう知っていることを順に話し始めた。
「俺だけで何とかできるなら、それでいいと思って黙ってました。フミさんが記憶を持ち始めたのは、四回ほど前からです」
「つまり、残りの四十六回は長尾さんだけが知っていたんだね」
「そうです。突然フミさんが前の回を覚え始めた時は、かなり驚きました」
長尾の記憶は、帰りのバスの中まで続いている。山を下り、二人でバスへ乗ると、必ず大きなブレーキ音がして終わる。その瞬間、長尾が戻ろうと意識して瞬きをすれば祠へ戻れた。瞬きを我慢しても、景色の方が崩れ、同じ結末になったこともある。
「家に帰るまで瞬きを我慢したことは?」
「そこまで進めないんです。帰りのバスから先は固定されてる」
「では、バスが悪いのか。祠じゃなくて」
フミは洞窟の燃える前照灯を思い出した。
「あれは車のライトだった。そして黒い箱は、ブレーキ音の後に世界が収束すると言った」
「ここ数周まで、洞窟の火も箱もなかったんです。フミさんが記憶を持つようになったことも含め、この世界は限界に来ていると思います」
「あと何回?」
「多分、四回くらい」
「限界を迎えたら、どうなる?」
「分かりません」
フミは右手を開き、閉じた。今の周回では、そこだけが痛い。
「痛みは毎回変わるけれど、蓄積はしていない。長尾さんも、痛む場所があったの?」
「はい。ずっと黙っていました」
「駄目だよ。痛い時は痛いと言いなさい」
「すみません。でも、それで事故のことが見えてきました」
軽傷の一名は運転手。車内に取り残された二名は、自分たち。洞窟のヘッドライト、帰りのブレーキ音、箱の無線は、すべて同じ事故の断片だろう。
「今、俺は左手、フミさんは右手が痛い。このまま現実へ戻れば、それぞれそこを負傷するという予告なんじゃないかと思っています」
「頭や胸よりはましかもしれないけど、右手を失うのは普通に嫌だな」
「五十回の中には、どこも痛くない時もありました。二人とも無傷の周回を引ければ、それが一番いい」
「負傷の引き直し。神をガチャに付き合わせるとはね」
「俺が一応、操作できるガチャです」
「ただし、あと四回。次がもっと悪い場所でも、今の右手と左手には戻れない」
二人は、身体の部位を数字ではなく、その先の生活として考え直した。
「頭と胸、全身は致命的です。脚も出血や後遺症を考えれば危ない。手だって、仕事や生活が変わります」
「我は今の右手と左手で帰ってもよいと思っている。無傷が保証されているわけでもないし、単なる予感かもしれない」
「俺は、残りがあるなら無傷を狙いたい。意見が違いますね」
「一回ごとに、どちらかがどの程度なら続けるか決めないと。長尾さんが無傷で、我が全身だったら?」
「もう一度引きます。片方だけ置いていくのはなしです」
「では、長尾さんが全身で我が無傷でも?」
「同じです」
「右手と左手を失うかもしれない今は、かなりましな結果だよ。二人ともそこを引いているだけでも運がいい」
「それでも、無傷になる可能性はこれから高くなる気がしています」
次に進めば、悪化した時ほどさらに進まざるを得なくなる。二人は何度も同じ危険を言葉にした。
「五十回やった長尾さんの意思を六割、我の意思を四割くらいで決めよう。だから、本音を聞かせなさい」
「あと四回あるなら、俺は行きたい。結果は一回ごとに二人で確かめて、必ず相談します」
「我が嫌だと言ったら止める?」
「止めます。逆に、俺が限界だと言った時も止めてください」
フミは長尾の顔に積もった疲労を見た。五十回分を一人へ背負わせたまま終わるつもりもなかった。
「分かった。もう一度だけ、二人の意思で進もう。悪くなったら、その時また決める」
「ありがとうございます」
「長尾さんがやれと言ったのでやる、と記録しておこう。帰ったら、黙っていた分の説教も残っているからね」
長尾は困ったように笑い、瞬きをした。
祠の光が戻る。フミはまず右手を握り、頭、胸、足へ意識を巡らせた。
「我は、どこも痛くない」
隣では、長尾が自分の身体を確かめていた。
第五章動画で見る#
最初の反復で、フミの痛みはすべて消えた。一方、長尾は右足を庇っている。
「俺は右足です。フミさんは?」
「我は無傷。でも、右足は微妙だな」
「片方が無傷になったんだから、さっきの右手と左手よりは上振れでしょう。このまま帰ってもいいんじゃないですか」
「それは、長尾さんが右足を怪我したまま帰るということだよ」
「左足だったとしても、義足なり何なり作ればいい。仕事も多分、何とかなる」
「一生歩けなくなるかもしれない。仕事ができなくなって、役所に怒られるよ」
「妻の仕事は難しいかもしれませんけど、配信業がありますから」
「そんなことを言わないで、普通にしなさい。さっきは手より足の方が危ないと言っていただろう」
長尾が自分だけの負傷なら許容しようとするので、フミの疑いが戻った。
「五十回の中で、我が知らないことがまだあるんじゃないか。全部言いなさい」
「これ以上は何も知りません。本当に」
「では、先に規則を決めよう。その時その時で長尾さんが『これならよい』と言っても、判断が変わり続ける」
「現状で帰るのが嫌なら、次は無傷と無傷を目指す。それでどうです?」
「さっきは片方が無傷なら十分と言っていたのに」
「フミさんが全身で俺が無傷なら、もちろんもう一回です。右足は、全身とは危険度が違うと思っただけで」
「足も駄目なんだろう?」
「多分、駄目です」
「では、二人とも無傷。それ以外では帰らない」
「あと三回はある。いけると思います」
ようやく条件を揃え、二人は次の反復を選んだ。
長尾が瞬きをする。祠の前へ戻った途端、二人は身体を確かめた。
フミは左足、長尾も同じく足に痛みがある。
「足か。足は駄目なんだったね」
「これは、もう一回でしょう」
「長尾さんの言うことを信じるなら、そうなる。あと二回」
「無傷になる可能性は下がっていないはずです。行きましょう」
二人はもう一度、同じ結論を確かめた。
「片方だけ無事でも終わらない」
「二人とも、どこも痛くない回で帰る」
長尾が瞬きをする。
また祠。コーラも、木漏れ日も、何度も見た場所へ戻る。
フミは腕を上げ、脚へ力を入れ、胸の奥まで息を吸った。痛みはない。隣を見ると、長尾も驚いた顔で自分の手足を動かしている。
「我は、どこも痛くない」
「俺もです」
「本当に?」
「本当に。やった。戻りましょう」
喜ぶ声に、恐怖が遅れて混ざった。無傷であることは、外の世界でも助かるという保証ではない。ここから出れば、もう次の反復はない。
「怖いな。本当にこれで終わるのか」
「でも、二人で決めた条件を満たしました。行きましょう」
「危なかった。長尾さんがあんなに強引だから」
「五十回やった勘を、六割採用してくれたでしょう」
「残り四割は、いまも怖がっているよ」
「それも一緒に持って帰ります」
長尾が最後の瞬きをした。
ブレーキ音が世界へ響き渡る。
気がつくと、二人は帰りのバスにいた。無茶な運転をする車を避け、バスが山道で横転する。窓ガラスが割れ、火が上がり、煙が噴き出した。遠くからサイレンの音が近づいてくる。
次に目を開けると、白い病室だった。
医師が二人のベッドへ近づく。
「目が覚めましたか。ここは病院です。あなたたちは、バスの事故に巻き込まれました」
「やっぱり、事故だったんですね」
「身体に痛みはありますか?」
フミは何度も手を握り、足を動かした。
「何も感じない。どこも痛くない」
「長尾さん、聞こえている? 生きてる?」
「生きてます。声が小さいだけです。俺も痛くない」
「やった。無傷だ」
医師は、あれほど大きな事故で二人がほとんど傷を負っていないのは奇跡だと話した。数日間の検査入院をすれば、すぐに帰れるという。
医師が去ると、二人はようやく長い息を吐いた。
「とんでもない任務だったな」
「役所は、何をどこまで知ってたんでしょう」
「長尾さんが話したことが全部なら、ループする神がいたということ?」
「邪神だったんじゃないですか。普通に殴れば終わると思ってました」
「良くない神だったよ。本当に。長尾さん、今も何も痛くない?」
「全然。腕一本くらい持っていかれるかとは思いましたけど」
「危なっかしすぎる。我が帰ろうと言っても、全然帰らなかった」
「何とかなると思っちゃったんですよね」
「思いすぎだ。最初は無傷になる確率も低かったのに」
「殴ればどうにかなる相手じゃなくて、テクニカルなタイプでした」
二人は笑ったあと、事故に遭った荷物を思い出した。
「フレンチトーストの残りは、ぐちゃぐちゃだろうね」
「洞窟の影は何だったんでしょう。あの神を、ちゃんと退治できたわけでもない」
「我らが力から逃れただけなら、別の人が迷い込むかもしれない」
「役所へ報告書を出します。後は専門の人に任せましょう」
「長尾さんが一人でもう一度行ってきたら?」
「一人では抜ける手段がなくなります。申し訳ないですけど、命が最優先です」
「それでいい。神様を稼働させた分の報酬だけは、きちんともらっておきなさい」
「コーラを送っておきます」
「本当にコーラなのか」
数日後、検査では何の異常も見つからなかった。
フミと長尾は、二人分の記憶と、役所へ提出するには長すぎる報告を抱え、日常へ帰っていった。