リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
フミ
自らを神と称しながら、バスにも乗ればスマートフォンの電波も気にする庶民派。尊大さと親しみやすさを行き来し、危険を前にしても長尾との応酬をやめない。
長尾景
神の力を必要とする任務を受け、フミを山へ連れてきた青年。時間と帰りのバスを現実的に気にしつつ、異変には鋭く踏み込む。フミをからかう言葉の端々に、彼女への信頼がにじむ。
第一章#
『信頼できる神を連れてこい』という任務に、長尾が選んだのはフミだった。神なら一足で着けそうなものだが、二人は古い路線バスに揺られている。
長尾は車窓の山影を指し、向かいのフミへ任務の目的地を示した。
「信頼できる神を連れてこいと言われて、俺が思いついたのはフミさんだけだったんですよ」
「それは光栄だけど、どうして我らはバスに乗っているの?」
「神の力で、山頂まで一瞬で行けたりしないんですか」
フミは当然のように胸を張った。
「我は庶民派の神だから。公共交通機関を使うのも民への理解だよ」
停留所へ降りた長尾は、圏外になった画面と時刻表を見比べた。
「次のバスは二時間後。強制的にデジタルデトックスですね」
「ポケットWi-Fiを持ってくればよかった。で、目的地は?」
「電波が来てないんだから、ポケットWi-Fiだけ繋がるわけないでしょう」
「スマホが使えないと、もう駄目だ。神にも現代文明は必要なんだよ」
「神のくせに、俗世っぽいことを言いますね」
「山頂です。さっと終わらせましょう」
フミは見上げるほど続く石段を見て、無言で長尾へ視線を戻した。
不揃いな石段は、登り始めから容赦がなかった。夕食と終バスを気にする二人の声が、杉林の中へ響いていく。
「この階段、最初から容赦がないな。夕食までに戻れるの?」
「終バスを逃さなければ戻れます。だから止まらず行きましょう」
「これを逃したら、次は二時間後でしょう。夕食に間に合わなくなる」
「その次は夜です。電波もない山で待つことになりますよ」
「分かった、行く。任務より夕食のために急ぐ」
フミは数段上がったところで立ち止まり、扇ぐように手を振った。
「フミ様は、山なんて登らないんだけど」
「参られる側ですもんね。でも今日は任務の同行者です」
「参る側が登りなさいよ。神まで歩かせるとは、ずいぶんな役所だな」
文句を言いながらも、フミは長尾が先へ行きすぎると必ず同じ段まで追いついた。
「最近、運動していますか」
「神は運動しなくても神だからね。長尾さんこそ、こういう道に慣れてるの?」
「任務で歩くことはありますけど、好きで登る人の気持ちはまだ分かりません」
暑さに文句を言うフミへ、長尾は神の力で何とかしてほしいと返した。フミはアイスの名を挙げ、任務より下山後の冷たさへ思いを馳せる。
湿った風が止まり、石段の上へ熱がこもった。
「暑い。神の力で涼しくできませんか」
「そんな便利な空調みたいに扱うな。下山したらアイスを要求する」
「ハーゲンダッツでいいですか」
「味は我が選ぶ。報酬とは別枠だからね」
長尾は笑いながら水筒を渡し、フミが飲み終えるまで足を止めた。
「それだけ言えるなら、まだ歩けますね」
「覚えておきなさい。神への不敬は、報告書には書けない形で返すから」
長尾は祠へ近づこうとするフミを反射的に止めた。壊すつもりだろう、と疑う声に、フミは心外そうに振り返る。
苔むした祠へまっすぐ近づくフミを、長尾は慌てて遮った。
「フミさん、待ってください。いきなり触って壊したりしませんよね」
「我を何だと思っているんだ。神だからこそ、こういう場所の扱いは心得ている」
フミは心外そうに眉を上げたが、祠へ伸ばす指先はひどく慎重だった。
第二章#
祠の戸は少し開き、内部の札は崩れかけて読めなかった。フミは埃を払い、供え物として手元のコーラを置いた。
「ずいぶん荒れているな。長い間、誰も手を入れていないみたいだ」
「ではフミさんが掃除してください。神同士、放っておけないでしょう」
「一度きれいにしたくらいで、願いまで叶えてもらおうとしてない?」
「供え物もありますよ。いま飲んでいるコーラでどうです」
フミは缶を見つめ、少し考えてから祠の前へ置いた。
「我が飲みかけでは失礼だから、開けていない方を供えよう」
「ちゃんと新品を持っていたんですね」
「神同士の付き合いにも礼儀はある。長尾さんよりは分かっているよ」
フミは祠へ向き直り、柏手を打った。
「掃除も供え物もした。何かいいことが起きますように」
「ずいぶん大ざっぱな願いですね」
「細かく指定して、別料金を請求されたら困るだろう?」
祠の先には大きな洞窟があった。任務と無関係だと渋るフミに、長尾は別の祠があるかもしれないと足を踏み入れる。
「普通の洞窟みたいですけど、奥に別の祠があるかもしれません」
「任務には関係ないでしょう。暗いし、我は外で待つ」
「少しだけ見てきます。何かあったら呼びますから」
長尾が数歩進むと、声はすぐ近くの岩壁から返った。
「行き止まりです。何もないですね」
「だから言っただろう。秘密基地にするなら勝手に使いなさい」
「それはちょっと楽しそうですけど、先に任務を終わらせます」
山頂には青空と見晴らしのよい景色しかなく、任務の対象らしいものは見当たらなかった。フミは無駄足だと役人を責め、長尾は結果が出ている任務なのだと庇った。
「山頂まで来ても何もない。役所は我らを散歩させたかったのか?」
「これまで結果は出ています。今回も、まだ見えていない意味があるはずです」
「信頼が厚いね。役人どもには、長尾さんの半分くらい見習ってほしい」
帰りのバスまで余裕があると分かり、長尾は包みを広げた。
「フレンチトーストを作ってきました。チーズ入りですけど、食べますか」
「山で急に洒落たものを出すな。いただきます」
フミは一口食べ、悔しそうにもう一切れ取った。
「おいしい。料理までできるなら、任務より店を開いた方がいいんじゃない?」
「最近まで、料理は中華鍋を振って包丁を高速で動かす、大層なものだと思ってたんです」
「それしか料理の映像を知らなかったの?」
「自分で作ったら、フレンチトーストは意外と簡単でした。フミさんも料理はするんですか」
「自分の分くらいは作る。神を何だと思っている」
長尾は景色へ目を向け、ふと思い出したように言った。
「そういえば、山が好きな友達がいるんですよね」
「山そのものが好きなのか、山好きの男と登りたいのか。我の持論では後者だ」
「その持論、性格が悪すぎませんか」
「我々は山に興味がないから、空気とフレンチトーストを楽しめばいい」
「それは報告書を書かなくていい仕事ですか。少し心が動きますね」
「我を看板に使うなら、コーラ一年分を要求する」
「高いなあ。今日のアイスで勘弁してください」
帰りのバスで眠ったはずなのに、フミが目を開くと祠の前だった。長尾の袋には、山頂で食べたはずのフレンチトーストが手つかずで残っている。
フミは長尾の袋を指し、声を強めた。
「それ、山頂で食べたはずだ。どうして元に戻っている?」
「食べてませんよ。俺たちはいま祠へ着いたところです」
「我は掃除をして、コーラを供えて、山頂でそれを食べた。長尾さんは全部忘れている」
長尾は疑いながら包みを開き、減っていない枚数を数えた。
「信じます。少なくともフミさんが、こんな細かい嘘をつく理由はない」
「なら、一度だけ登り直す。何もなかったら、今度こそ我の言葉を信じなさい」
「役所の情報にも、何かあると書いてありました。フミさんと役所、どちらが正しいか確かめましょう」
「我と役所を同じ秤に載せるな」
登り直す途中、長尾は考えを整理するように思考実験を語った。
「見知らぬバイオリン奏者と身体をつながれて、九か月待てば相手が助かる。フミさんなら待ちますか」
「我が死なないなら待つ。自由を九か月失っても、相手を死なせるよりはいい」
「俺もです。ただ、自分が死ぬ条件なら、残す人たちのことまで考えないと決められない」
「正解はなくても、何を守りたいかは分かる問いだね」
第三章#
声ではない思念が『痛みは予感』と告げ、瞬きの後、二人はまた祠の前へ戻された。今度はフミの頭に、傷のない内側から鈍い痛みが残っている。
フミはこめかみを押さえ、祠の前で目を細めた。
「頭が痛い。傷はないのに、内側だけが重い」
「俺たちはフミさんとバスを降りて、ここまで来たところです。山頂へはまだ行っていません」
「また忘れたのか。今度は思考実験まで話しただろう」
長尾の顔に記憶はなく、フミは苛立ちより深い疲れを覚えた。
「登るのはやめよう。下山して、事故でも病気でもないか確かめる」
「任務を放り出すのは賛成できません。でも、その痛みで登らせるのも違う。まず下の道を確認しましょう」
二人は互いの譲れない部分を残したまま、並んで来た道を戻った。
洞窟の奥では、割れた灯りが燃えていた。車のヘッドライトだけが岩肌を照らし、左右対称の影を作っている。
洞窟の灯りを前に、長尾はフミを背へ庇った。
「割れたランプが燃えています。近づくなら俺が先に行きます」
「車のヘッドライトまである。山の中に落ちている理由が分からないな」
「誰かが事故に遭った部品でしょうか。でも車体も人も見当たりません」
岩壁にできた影を、長尾とフミは別々の形として見た。
「俺には、角のある獣に見えます」
「我には翼を広げた鳥だ。同じ影を見ているのに、ずいぶん違うね」
「ロールシャッハ・テストみたいです。答えより、見え方の違いを見るやつ」
声ではない思念が響いた瞬間、フミは胸を押さえた。
「痛みが移った。頭ではなく、今度は胸だ」
祠の掃除も、コーラも、食べ物も、長尾はまた忘れていた。フミは何度も同じ説明をし、ついに自分たちが別々の周回から記憶を持ち越していると気づく。
「祠は掃除した。コーラも供えた。フレンチトーストも一緒に食べた」
「その会話を俺は覚えていない。でも料理の話をフミさんが先に知っているなら、説明がつきません」
「料理は大層なものだと思っていたけど、作ったら簡単だった。中華鍋の話もした」
長尾の眉が上がった。まだ口にしていないはずの言葉だった。
「そこまで同じなら、偶然ではありません。前の俺は、ちゃんとその話を聞いていたんですね」
「普段の会話まで適当に流していたわけではないらしい。そこだけは安心した」
長尾は掌へ油性ペンを走らせた。
「次の俺が忘れても分かるように、『山頂に登った』と書いておきます」
「文字まで戻ったらどうする?」
「その時は別の方法を考えます。少なくとも、何もしないよりましです」
フミは自分の掌にも同じ言葉を書き、乾くまで指を開いたままにした。
「片方だけ覚えているなら、覚えている方が説明する。疑っても、最後まで聞く。これを約束にしよう」
「分かりました。忘れた俺にも、同じことを言ってください」
山頂へ向かう途中、参道の中央に黒い箱が現れた。長尾が近づくと、一人は軽傷、二人は車内に取り残されているという救助無線が聞こえた。
黒い箱から聞こえた救助無線に、長尾は息を詰めた。
「一人は軽傷、二人が車内に取り残されている。俺たちの人数と合う」
「次へ行く前に話して。長尾さんは、どこまで覚えている?」
長尾は返事を避けかけ、右手を押さえるフミを見て諦めた。
「実は、もっと前から反復を覚えています。俺だけで解決できると思って、黙って何十回も試しました」
「我を信用していなかったの?」
「巻き込みたくなかったんです。でも結果として、何度も同じ危険へ連れてきた」
「我が記憶を持ち始めたのは、四回ほど前から。残りの四十六回は、長尾さんだけが知っていたんだね」
「はい。突然フミさんが前の周回を覚え始めた時は、正直かなり驚きました」
フミの怒りはすぐには消えなかった。それでも黒い箱を睨む視線は、長尾と同じ方向を向いていた。
「あとで叱る。今は、知っていることを全部話しなさい」
第四章#
長尾は五十回近く同じ山を越え、帰りのバスより先へ進めなかった。瞬きを我慢しても、ブレーキ音の先だけは固定されている。
「五十回近く登りました。帰りのバスに乗るとブレーキ音がして、必ず祠へ戻されます」
「瞬きをしなければ、先へ進めた?」
「試しました。でも景色の方が崩れて、結局戻った。回数にも限界がある気がします」
フミは洞窟のヘッドライトと黒い箱を思い返した。
「我らは事故の前を繰り返しているのではなく、事故の最中に夢を見ているのかもしれない」
「俺もそう考えています。痛みは、現実へ戻った時の傷の予告でしょう」
「軽傷の一名は運転手。車内に残された二名が我らなら、人数も合う」
「洞窟のヘッドライト、帰りのブレーキ音、箱の無線。全部、同じ事故の断片です」
「限界が来たら、どうなる?」
「分かりません。だから、もう一人で試すのはやめます」
箱の声が告げた負傷者は、運転手と二人を指している。周回ごとに変わる痛みは、現実へ戻った時に負う傷の予告なのだと長尾は考えた。
「箱の声の負傷者は、運転手と俺たちのことだと思います」
「周回ごとに痛む場所が変わるなら、事故の結果も変わっている?」
「たぶん。痛みがない周回もありました。二人とも無傷の世界を待てる可能性はあります」
フミは痛む右手を見下ろし、ゆっくり指を曲げた。
「いま戻れば、この手を失うかもしれない。続ければ、もっと大事な場所を傷めるかもしれない」
「俺だけなら続けます。でもフミさんの身体を、俺が勝手に賭けることはできない」
「神だから平気だと決めつけないところは、信用してあげる」
手や足なら受け入れられるのか。仕事ができなくなる傷ならどうか。二人は身体の部位を数字ではなく、その先の生活として考え直した。
「手や足ならいい、とは簡単に言えません。戻った後の生活と仕事が変わります」
「俺は、残りがあるなら無傷を狙いたい。意見が違いますね」
「右手なら、頭や胸よりはましだ。我はここで帰ってもいいと思っている」
「でも一度進めば、今の結果へは戻れません。次が全身の痛みでも、その時点から選び直すしかない」
「負傷のリセマラというわけか。神をガチャに付き合わせるとはね」
「五十回試した俺の意見を、少し多めに採用してもらえませんか」
「長尾さんの意思を六割、我の意思を四割くらいで決めよう。だから、もう一度だけ本音を聞かせなさい」
風が二人の間を抜け、返事を急かすように祠の鈴を鳴らした。
「長尾さんが五十回見てきたことは無視しない。でも、我が嫌だと言ったら止める?」
「止めます。逆に、俺が限界だと言った時も止めてください」
「それなら、あと一度だけ。結果を見て、また二人で決める」
「次の結果が悪ければ、勝手に続けない。片方だけ無傷でも、もう一人を置いて帰らない。それでいいね」
「はい。周回ごとに、必ず二人で確認します」
フミは長尾の五十回分の経験を重く見た。長尾も、フミの身体を勝手に賭けるつもりはない。
「腕一本を失うかもしれない。それでも、もう一度試したいんですね」
「はい。ただしフミさんを置いて、安全な方だけ選ぶつもりはありません」
フミは長尾の顔に積もった疲労を見て、腕を組み直した。
「我も長尾さんだけに五十回分を背負わせるつもりはない。次は二人の意思で進む」
「ありがとうございます。今度は何が起きても、先に相談します」
「当然だ。帰ったら、黙っていた分の説教も残っているからね」
長尾は困ったように笑った。それでも、その約束を聞けたことに安堵していた。
第五章#
次の反復で、痛みは右手から右足へ移った。一方だけが無傷でも、相手が重傷なら帰れない。二人は許容する条件を改めて言葉にした。
祠へ戻ると、フミの右手の痛みは消え、今度は長尾が右足を庇った。
「俺は右足です。フミさんは?」
「我はどこも痛くない。でも、長尾さんをこのまま帰す気はない」
「仕事に戻れない傷なら困ります。ただ、次が胸や頭になる可能性もある」
「だから条件を決めよう。どちらかに強い痛みが出たら、無理に続けない」
「二人とも無傷か、少なくとも二人が納得できる結果。それ以外では帰らない」
二人は曖昧な勇気ではなく、具体的な約束を携えて次の瞬きを待った。
次の瞬きでフミの左足に痛みが走る。残り回数を数えながら、二人はさらに一度だけ世界を閉じた。
祠の前には、登り始めと変わらない昼の光が落ちていた。何度も見たはずの景色を、二人はこれが最後になるかもしれないものとして見渡した。
「長尾さん、今はどこか痛む?」
長尾は肩、胸、手足へ順に力を入れ、驚いた顔を上げた。
「どこも痛くありません。フミさんは?」
フミも立ち上がり、両足へ同じように体重をかける。
「我も平気だ。ようやく二人とも無傷らしい」
「保証はありません。それでも、この周回で帰りたいです」
「我も同じだ。今度は一緒に目を開けよう」
二人が反復を終えると決めた瞬間、バスのエンジン音が戻った。次の瞬間、無茶な運転をする車を避けようとしたバスが道を外れる。急ブレーキ、砕けるガラス、燃え上がる火、吹き上がる煙。遠くから近づくサイレンを最後に、二人の意識は暗闇へ落ちた。
次に目を開くと病室だった。医師は、大きな事故だったにもかかわらず二人とも無傷で、数日の検査入院だけで帰れると説明した。
フミは白い天井から視線を動かし、隣のベッドを見た。
「長尾さん、生きている?」
「生きています。声が出しにくいだけです。フミさんは?」
「我も無傷らしい。あれだけ派手に転がったのに、信じられないな」
医師が去ると、長尾は安堵と困惑の混じった息を吐いた。
「結局、あの祠の神が任務の対象だったんでしょうか」
「事故から助けるために反復させたなら、敵とは言い切れないね」
「でも退治できたとも言えません。同じ山へ一人で来た人が迷い込んだら、抜ける方法がないかもしれない」
「一人では、痛みの意味を考える相手もいない。役所には、立入禁止も含めて提案しなさい」
「報告書には、そのまま書くしかありません。信じてもらえるかな」
「五十回も黙っていた人の報告だから、我が証人になってあげる」
「助かります。稼働分の報酬も請求してください」
「もちろん。コーラ一本で済ませたら、今度こそ祟るからね」
いつもの調子に戻った声を聞き、長尾はようやく笑った。