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01 / 07きかけんシャッハ

リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#

原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:PL 川犬・朝霧きか/DL 雪城眞尋「#きかけんシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=yvhap5mNTlU

これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。

登場人物#

リリエル
天真爛漫で好奇心旺盛な十三歳のお嬢様。幼いころ、両親を殺した悪党に誘拐されかけたが、メイドに救い出された。その悪党を追う旅の末にルルハリルを救出し、彼を執事として迎えた。現在は二人と共に、失われた幸福を取り戻すような日々を送っている。

ルルハリル
リリエルに仕える、不器用で短気な青年。幼いころに両親を殺され、奴隷として売られかけたところをリリエルたちに救われた。屋敷の外の人間を信じていない。リリエルに深い忠誠と好意を抱いているが、それを素直に伝えることはほとんどない。

メイド
リリエルが生まれる前から屋敷に仕える、家事も戦闘も完璧なスーパーメイド。いついかなる時も冷静沈着で、リリエルの安全を何より優先する。ルルハリルへの言葉は容赦がないが、それもまた信頼の裏返しである。


第一章#

古いディーゼルエンジンの低い唸りが、バスの床をかすかに震わせていた。

乗客は、運転手を除けば三人だけ。使い込まれた青いモケットの座席が、がらんとした車内に整然と並んでいる。窓の外では、春の光を浴びた木々が後方へ流れていった。細く曲がりくねった山道を、バスはゆっくりと登っていく。

リリエルは窓に顔を寄せ、次々に近づいてくる若葉を目で追っていた。その後ろ姿を見ながら、ルルハリルは深々とため息をつく。

「いや、なんでピクニックなんて、わざわざ行かなきゃいけねえんだよ」

リリエルが振り返った。

「え? だって、ピクニックは山でするものじゃないんですか?」

「いや、まあ、それは本とかにそう書いてあるかもしんねえけど。別に屋敷の前とかでもよかっただろうがよ」

「でも、やるならちゃんとやりたいです」

「そうですよね。本格的にお弁当も作ってきましたし」

メイドが膝の上のバスケットへ手を添え、当然のようにリリエルへ賛同する。

「で、ピクニックって何するんですか?」

無邪気な問いに、ルルハリルは眉を寄せた。

「知らねえよ」

メイドはわずかに顎を上げ、教師のような口調で答えた。

「ピクニックというのは、皆でお弁当を食べたり、青空の下で素敵な景色を見たりするものです。ですので本日は、景色がよく見えると評判の山頂を目指しに、我々はやってきたのではありませんか。ルルハリル」

「いや、まあ、そういう話にはなってるみたいだけどよ」

「何か文句でも?」

「いや。もうここまで来ちまったら引き返すこともできねえし、別にいいけど」

「もう、ピクニック楽しみです」

「そうですね、リリエル様」

間もなくバスは山頂近くの停留所へ到着した。降り立った三人を、若葉の匂いを含んだ風が迎える。

道端の時刻表によれば、ここを通るバスは一日に数本しかない。次の便は二時間後。山頂まで往復し、食事を取るにはちょうどよい時間だった。

「じゃあ、歩いていくか」

「はい、そうですね」

石と土で舗装された参道は、木漏れ日の中を緩やかに登っていた。メイドが前を行き、リリエルがその後ろを歩く。

「リリエル様、無理はしないでくださいね。舗装されているとはいえ参道ですから、怪我をしないように、しっかりついてきてくださいね」

「でも、すごい。山が近いっていうか、木々が近いっていうか……」

「まあ、山ですから」

緑に目を奪われたリリエルを置いて、ルルハリルは先へ先へと歩いていく。

「ルルハリル、ちょっと待ちなさい」

メイドの冷えた声が、その背を止めた。

「あなた、リリエルのそばにいなくてどうするのですか。私が先導しますから、あなたは一番後ろにつきなさい」

「分かってるよ」

「本当に分かってるんですか?」

「今、後ろにいるだろうがよ」

「まあ、それならいいですけれど。リリエル様に何かあれば、空で見守られている奥様、旦那様に顔向けできませんから。というわけで、ついてきてくださいね、お二人とも」

「はい」

「行きますよ、ルルハリル」

「ああ、分かったよ」

しばらく登ると、木々の壁が不意に途切れた。円形に開けた小さな空地の奥に、風雨にさらされた古い祠がひとつだけ建っている。人の気配はなかった。

「祠ですか」

「こんなところに、祠がぽつんと一つだけかよ」

「そうですね。なんだか、ずいぶんと神秘的な場所ですね」

リリエルは小首をかしげた。

「祠ってことは、神社とかお寺さんとか、そういうのですか?」

「どうでしょうか。まあ、何かを祀っているようではありますが」

メイドは空地の木陰とリリエルの顔色を順に確かめる。

「何にせよ、いったん休憩したほうがよさそうですね。山頂まであと少しとはいえ、リリエル様の体力が心配ですし」

「うん。じゃあ、休憩にしましょう」

三人は祠の前で足を休めることにした。

「祠ってことは、何か神様を祀ってるんですよね?」

「そうだと思われますが、何を祀っているかは……」

「せっかく休憩もさせてもらってるので、ご挨拶がてらお参りしましょう」

「そうですね。そうしましょうか」

二人が祠へ近づくあいだ、ルルハリルは空地の周囲へ鋭い視線を巡らせた。

「リリエル様、では何かお供えでもいたしましょうか」

「そうですね。じゃあ、お弁当の中身を少し分けて、お供えしましょう」

「分かりました。何をお供えいたします?」

「おにぎり。唐揚げなどは、お供えには向いてないでしょうか?」

「でも、おにぎりって、祠の前とかお地蔵さんの前とかに置いてあるイメージがあります」

「確かに。リリエル様は物知りですね。それでは、おにぎりをお供えしておきましょう」

小さなおにぎりを供えたあと、リリエルは祠を覗き込んだ。

「でも、何の神様を祀ってるんでしょうね」

戸が少しだけ開いている。そっと開くと、暗い内側に、ひどく傷んだ札が貼られていた。

「お札が貼ってあります。ルルハリル、お札が貼ってありますよ」

「俺は今、野生の動物が出てこねえか見張ってんだよ」

「大丈夫ですよ。そんな山じゃないでしょ」

「いや、一応だって。森だから、いないわけじゃないだろう。可能性はあるだろうが」

「そうですか。まあでも、ちょっとぐらい……」

「何だよ」

「いや、お札が飾ってあるなって」

「飾ってる……まあ、祀っている、貼ってあった、が正しいようですか」

札には何か書かれているらしい。しかし、紙も墨もぼろぼろで、文字を読むことはできない。

「どうかしましたか、リリエル様」

「文字が読めないなと思って。でも、そうですね。お供えもできましたし」

「そうですね。扉を元の場所に戻しておくとして、そろそろ山頂へ向かいましょうか」

「そうですね。あんまり休憩しすぎると、バスの時間がなくなってしまうかもしれません」

「次のバスを逃せば、また二時間後だったような気がしますので、間に合うように迅速に行動しましょう」

「はい」

「よし。じゃあ行くか」

祠をあとにして少し登ると、参道の脇に洞窟が現れた。岩肌に開いた口は暗く、奥の様子は見通せない。

「洞窟……」

「でも、ピクニックは青空の下でするんですよね?」

「そうですね。ここは雨宿りぐらいにしか使えなさそうですね」

「まあ、逆に言えば、雨が降ったらここに行きゃいいだろう。俺たち、傘は持ってきてないよな」

「リリエル様が濡れない程度になら、私がなんとか」

「だったらいいか」

「みんな、濡れちゃだめですよ」

リリエルは洞窟と山頂へ続く道を見比べた。

「ここを抜けないといけないってわけじゃないですよね?」

山頂への道は、そのまま洞窟の横を通り過ぎている。

ルルハリルは足を止め、暗闇を睨んだ。

「いや、ただちょっと待ってくれ。この中に、さっき言った野生動物――熊だとか、そういうのがいたら困るだろう。一応、中の確認だけはしておこう」

「では、ルルハリル。あなたが行きなさい。私はリリエル様を見ているので」

「絶対に、何かあったらすぐ呼んでくれよ」

「うん。ルルハリルも何かあったら呼んでくださいね」

「ああ。じゃあ、ちょっと行ってくるわ」

ルルハリルはためらいなく洞窟へ入った。だが奥行きはわずかで、すぐ行き止まりになっている。獣も危険な崩落も見当たらなかった。

彼は二人のもとへ戻る。

「中、何もいなかった」

「熊さん、いなかったですか?」

「そうだな。まあ、だから大丈夫だ。このまま山頂に行っても」

「何もなくて何よりですね。それではまた、引き続き私が先導しますので」

洞窟からさらに登り、三人はようやく山頂へ到着した。

空は青く晴れ渡っていた。眼下には幾重もの山並みが連なり、その向こうには薄い霞をまとった町が広がっている。風が草を撫でるたび、陽光が波のように斜面を渡っていった。

「着きました。すごいですね」

「そうですね」

「人は誰もいなさそうですね」

「貸し切りですね、リリエル様」

「貸し切り、嬉しいですね。じゃあ、ここにシートを敷いて、お弁当を食べましょう」

「ああ、そうだな。まあ、人がいなくてよかったわ。山頂といえば人がいるようなもんだと思ってたから、俺は行きたくなかったんだけど」

「そうなんですか?」

「いや、分かるだろう。屋敷の外の人間は嫌いだって」

「でも、そんなこと言ってたら、いつまでもそのまんまですよ」

「別にいいよ」

「でも、バスにも人はいませんでしたしね」

「そうですね。今日は平日なので、人も少ないのかもしれませんね」

メイドはシートを敷き、バスケットを開いた。色鮮やかな料理が、三人の前へ次々に並べられていく。

「そういえば、リリエル様のためにお食事を持ってきております」

「はい。楽しみです」

「わあい!」

「リリエル様がお好きなものから、最近流行りのものまで、すべてご用意しましたので、お好きなものをお召し上がりください」

「さっき唐揚げって出てきてたから、唐揚げをまず食べたいです」

「ぜひどうぞ」

「ルルハリルは何を食べますか?」

「俺は余ったやつでいい」

「彼にはその辺の草で十分では?」

「ええ。でも、みんなで食べたほうがおいしいですよ」

「リリエル様がそうおっしゃるのであれば」

「メイドさんは何を食べますか?」

「私ですか。そうですね。では、リリエル様と同じく唐揚げをいただこうかと思います」

リリエルは唐揚げを一つ取り、メイドの口元へ差し出した。

「はい。あーん」

完璧なメイドの顔が、一瞬だけ固まった。

「ピクニックは、みんなでこう、わいわいするものじゃないんですか?」

「わいわいの意味合いが、少し違うといいますか……。でも、リリエル様のご命令ならば。あーん」

メイドは差し出された唐揚げを上品に口へ運んだ。

「おいしいですか?」

「おいしいです」

「でも、メイドさんが作ってくれたんですけど」

「まあ、そうですね。でも、リリエル様からいただくとは思っていなかったので、より一層おいしく感じました。ありがとうございます」

「よかったです。ルルハリルも食べますか?」

「いや。やんねえよ。なんで俺がそんなことしなきゃいけねえんだよ」

「でも、『俺は余ったやつを食べる』って」

「お嬢様を悲しませる気ですか?」

「いや、そういうわけじゃなくて」

「卵焼きのほうがよかったですか?」

「そういう問題でもなくてな」

「たくさん、ウインナーとかも一緒に全部刺してしまったらいいんじゃないですかね。この口、いっぱい入りそうですし」

「メイド、てめえ」

「ではリリエル様、私が押さえていますので」

「ちょ、やめろ!」

メイドに背後から押さえ込まれたルルハリルへ、リリエルが食べ物を載せたスプーンを差し出す。彼は観念したように大口を開け、スプーンごと噛み取る勢いで食べ物を奪った。

「お行儀が悪いですよ」

「これでいいだろう」

「お粗末な執事なんですから、もうちょっと行儀よくしたらどうですか」

「うるせえよ。行儀よくっつったら、自分で食べるのが一番行儀いいだろうが。食べさせてもらうとか、そんなんじゃなくてよ」

「まあまあ。おいしいですか?」

「まずくはなかったよ」

「私が作った料理が『まずくはなかった』?」

「なんだよ」

「メイドさんのお料理は、いつもおいしいです」

「リリエル様、ありがとうございます。ルルハリルも見習ったらどうですか?」

「多少はおいしかったんじゃないのか」

「まあ、『多少』。今はそれで我慢しましょう」

やがて弁当箱は空になった。時計を見たメイドが、手際よく片づけを始める。

「そろそろ下山の準備をしなければ。ちょうど今から降りれば、バスに間に合う時間ですね」

「そうですか。まあ、一通り景色も見たし、飯も食ったし。ピクニックは堪能できたんじゃねえのか」

「はい。楽しかったです」

「そうですね。リリエル様が楽しんでいただけたのであれば何よりです」

「また来ましょうね」

「まあ、人がいないんだったら別にいいけど」

三人は予定どおり下山し、停留所へ滑り込んできた帰りのバスに乗った。

「楽しかったです」

「楽しかったですね」

「でも、ちょっと、まあまあだったな」

「たくさん歩いたので、眠たくなってきました」

「そうですね。帰りは起こしますので、寝ていても大丈夫ですよ」

「はい。じゃあ、お願いします」

リリエルは窓へ頭を預けた。規則正しいエンジンの振動と、午後の日差しの暖かさに包まれて、まぶたを閉じる。

そして――。

第二章#

「せっかくですから、何か供えておきますか?」

メイドの声に、リリエルは目を開いた。

目の前にあるのは、バスの座席ではなかった。

木漏れ日の落ちる空地。古びた祠。まだ手をつけていない弁当のバスケット。

「え……?」

「どうするんです、リリエル様。お供えもしないんですか?」

「夢……? え、お供えは、確かおにぎりをした気がするんですけど」

「おにぎりを供えられたいのですか。分かりました」

「待て。ちょっと待て」

ルルハリルの切迫した声が飛んだ。

鳥の声も、葉を揺らす風も、先ほどまでと何ひとつ変わらない。その穏やかさが、戻ってきてしまったという異常だけを際立たせていた。

「なんですか、ルルハリル」

「おい、メイド。リリエルの様子見て、何かおかしいと思わねえのかよ。困惑してるだろう。俺だってそうだ。どうなってる?」

「確かに、どうかされたんですか? 先ほどまでは元気に歩いておられたのに。何かありましたか?」

「さっき、もう山頂まで行って、ピクニックして、『楽しかったね』って帰って、バスに乗って寝たと思ったんですけど」

「リリエル様、もしかして疲れておられるのですか。それならそうと言ってくだされば、私が背負ってまいりますのに」

「まだ元気です」

「そうだ。リリエルは元気だし、俺も元気だ。俺も同じなんだよ。数を把握してねえのは、てめえだけだ」

「何を言っているのか、よく分かりませんが」

その瞬間、リリエルの胸を、内側から握り潰されるような痛みが襲った。同時に、ルルハリルは左脚を押さえ、わずかに体勢を崩す。

「痛っ……」

「どうかしたんですか?」

「なんか、ちょっと、ずきずきします」

「ずきずきというと、どの辺が痛むのですか、リリエル様」

「この、胸の辺りなんですけど。山だからでしょうか?」

「普段、運動されていないので、もしかしたら息が上がってしまったのかもしれませんね」

「大丈夫かよ」

「でも、ルルハリルも、なんか痛そうでした」

「俺は別に、痛くも痒くもねえ」

「本当ですか? 汗、ちょっと垂らしてるけど」

「本当だよ」

「左足が痛いんですか?」

「別に痛くねえよ」

「そうですか。じゃあ、引きずってるのもわざとということで。リリエル様、何かあったらおっしゃってくださいね」

「はい。……そうだ。ルルハリル、ほっぺ、引っ張ってみてください」

「は?」

「私のほっぺ、引っ張ってみてください。痛かったら、夢じゃないかなと思って」

「なんで俺が……。いや、分かったよ。そんな目で見るな」

「優しくですよ、優しく」

「分かってるよ。俺だってリリエルを守る側だからな」

彼はリリエルから目を最大限に逸らしながら、壊れ物に触れるように、頬をそっとつまんだ。柔らかな肌を少しだけ伸ばして、すぐに放す。

「痛いですか?」

「まあ、痛いです」

「痛いです?」

「ルルハリル、加減をしろとあれほど」

「加減したけどな、俺」

「でも、痛かったので、やっぱり夢じゃないみたいですね」

「痛かったのかよ」

「夢ではないと思われますが。私も普通ですし」

「俺が不器用のせいで……もう」

リリエルは祠を見つめ、記憶をたどった。

「さっきから、もしかして、ここで休憩したときに寝ちゃって。逆に、ピクニックに行ったほうが夢ですか?」

「寝られた様子は、私は見ませんでしたが。寝てたんですか、あの一瞬で」

「寝てないですね、じゃあ」

「そうだな。メイド、お前はまだ信じてないんだな。俺たちの言い分を」

「信じるも信じないも、何を言っているのかよく分からないといいますか」

「じゃあ、まず話を聞け。俺たちは一度登って、そして下山してるはずなのに、気がついたらまたここに戻ってきてるんだよ」

「ルルハリルは、何か変なものでも食べたのでしょうか」

「まずは、いったん話を聞け。それでな、この先に何があるか、一つ言ってやるよ。洞窟があるんだよ。実際に進んでみて、本当にそれがあったら、俺たちの話を信じろ」

「その洞窟は、熊さんとか住んでなさそうでした」

「そうなんですね」

「分かりました。とはいえ、山ですから、洞窟があるくらいと思いますが。とりあえず進んでみましょうか」

「ちなみに言っとくと、洞窟の中には何もいなかったし、行き止まりだ」

「そうですか。おにぎりはお供えしておきます」

「そうですね」

おにぎりを供え、三人は再び参道を登った。

やがて、記憶どおりの場所に洞窟が現れる。

「ありました。ありました!」

「本当にありましたね」

「この先へ行っても何もないって、ルルハリルが言ってたので、見に行ってみましょう」

「じゃあ、今度は全員で行くか」

「危なくないですか、リリエル様」

「大丈夫ですよ。ルルハリル、強いので」

「俺が今度は先頭な」

「分かりました。メイドさんも強いです」

「そうですね。何に代えてもお守りいたしますから、私は一番後ろにいますね」

三人で洞窟へ入る。

そこにあるはずのない橙色の光が、岩壁を揺らめいていた。

「え……何?」

割れたランプに火が灯っている。さらに、車体からもぎ取られたようなヘッドライトが地面に転がり、岩肌に奇妙な影を投げかけていた。

「ルルハリル、何かありますよ。何もないなんて、嘘じゃないですか」

「悪かったよ。なんなんですかね、あれ」

「なんだ、これは」

揺れる影は、左右対称の黒い染みのようにも見えた。

「リリエル様。ロールシャッハ・テストというものをご存じですか?」

「ロールシャッハ・テストですか? 学校で習ってないです」

「そうですか。ルルハリル、あなたは?」

「リリエルが知らねえことは、俺も知らねえよ」

「でしょうね。ロールシャッハ・テストというものは、紙の上にインクを落とし、その紙を二つ折りにしたあと広げることによって作られる、左右対称の図形。それを見た被験者に何を想像したかを聞き、内容を分析する性格検査のことです。ちょうどこの影が左右対称ですから、思い出しただけなんですけれど」

メイドは岩壁の影へ視線を向ける。

「さて、お二人には何に見えますか?」

「影ですか?」

「そうですね」

「この見えてる影でいいんだよな。他に何か見えるものがあるのですか?」

「いや。一応聞いただけだよ。そうだな……草が生い茂ってるように見えなくもないか」

「草。そうですか。リリエル様は?」

「難しいですね。何かと言われれば、木のような気もしますし……」

「こういうのは、ぱっと見たときに感じたもので大丈夫なのですよ。頭の中に浮かんだものでいいのです」

「影が結構大きく見えるので、それこそ熊さんとか、動物とか」

「そうなのですね。とはいえ、どういうふうに見えるかという、そういうテストですから。特に意味があるというわけではないのですが」

「メイドさんは物知りですね」

「ありがとうございます」

そのとき、声ではない何かが、三人の頭蓋の内側へ直接流れ込んだ。

――時間が来たら、影は実体を取り戻す。

メイドが瞬きをした。

第三章#

「せっかくですから、何か供えておきますか?」

祠の前だった。

「どうなってんだよ」

「またですね、ルルハリル」

「『また』とは、お供えはもうしていたのですか?」

「お供えというか、この祠にお供えをしようというのが、三回目です」

「三回目。そんなにこの山に来られていたのですか?」

「いや。おそらく俺たちは初めてだろうな。だけど、なんか俺とリリエルは、さっきから繰り返してるように見えてんだよ。初めてを、何度も繰り返してんだ」

「初めてを、何度も繰り返す……。ルルハリル、あなた、どこかに頭でもぶつけましたか?」

「リリエルも同じだぞ」

「私もです」

「そうなのですか。リリエルも、何かよくないものでも食べたんじゃ……」

「拾い食いしてないですよ」

「拾い食いする前に、私が止めますよ」

直後、今度はリリエルの右脚と、ルルハリルの頭に痛みが走った。

「どうかされたのですか、お二人とも」

「足が痛くて。くじいちゃいましたかね」

「足が痛む。どこですか、見せてください」

「この辺りなんですけど」

「特に腫れている様子などは見受けられませんが、内部で何か起こっている可能性もありますので、一応、テーピングだけしておきましょうか」

「お願いします」

メイドは素早く、しかしあまりに強固に、リリエルの脚へテープを巻きつけた。

「これで大丈夫ですか?」

「全然ちが――」

「何か言いましたか?」

「ルルハリルも、ちょっと何か痛そうでした」

「俺は痛くねえ」

「頭が痛いんですか?」

「ちょっとだよ、ちょっと」

「まあ、山に登っていますからね。低いとはいえ、気圧とかなのでしょうか」

「まあ、そんなとこ。たぶん。知らねえけど」

「まだ歩けそうですか、ルルハリル」

「俺は歩けるよ。リリエルは大丈夫そうか?」

「うん。大丈夫です」

「お供え物、おにぎりにしておいてもいいですか?」

「分かりました。では、私がお弁当の中から、おにぎりをお供えしておきますね」

「あと、確か祠にお札が貼ってあったと思うんですけど。お札、確認してもいいですか?」

「分かりました。お札ですね」

リリエルが祠の戸を開く。札は同じ場所に貼られていた。傷み方も変わらず、文字も読めない。

だが今度は、その文字が鏡像のように反転していることだけが、はっきりと分かった。

「文字、これ、逆文字というか。鏡に映したみたいになってます」

「そうですね」

「なんでだ。前は違ったんだよな?」

「前に見たときは文字が読めなかったので、反対になってたことに気づかなかっただけかもしれないですけど。どうでしょう」

「いや。確かに前と反転してる」

「ここの払いの部分が、前は逆側だったので」

「そうなのですか。私はこのお札を初めて見たので、よく分かりませんが」

ルルハリルは祠から視線を外し、二人を見た。

「なあ。一ついいか」

「はい」

「ピクニックはやめて、今日はこのまま帰らねえか」

「今日はこのまま帰るといいますと、それでもバスはあと二時間後ですよ」

「それでもいい。なんか、この山に長くいすぎちゃいけねえ気がすんだ」

「そうなんですか?」

「よく分かりませんが、リリエル様は?」

「ルルハリルの言うこと、分かります。体のいろんな部分が痛くなったりとか」

「気圧のせいや、くじいてしまったとかではないのでしょうか」

「実際に血を流してるわけじゃねえだろ」

「どちらにせよ、足も痛いし、ルルハリルも頭が痛いんだったら、無理せずバスを下で待ってもいいかもしれないですね」

「俺はそう提案させていただくけど、どうだ」

「分かりました。リリエル様のことが第一ですし、リリエル様もそうおっしゃるのであれば、今回は諦めて下山することにしましょうか」

「それがいい」

三人は来た道を下り始めた。湿った落ち葉を踏む音が、一定の間隔で坂道に続く。先ほど通ったはずの景色は同じ形をしているのに、帰れる道には見えなかった。

時間を持て余すように、メイドが口を開く。

「下るのも時間がかかりますし、私からお二人に一つ質問をしてもよろしいでしょうか」

「はい。何ですか?」

「なんだよ」

「質問というより、この問いに対してお二人がどう考えるかという、一種の思考実験なのですが。想像してください。気がつくと、あなたは病院のベッドで横たわっています。隣を見れば、同じく横たわっている一人の男性がいる。彼は有名なバイオリン奏者で、臓器移植が必要な患者だと知らされます。新たな臓器提供者が現れるのは九か月後。あなたと彼をつなぐ管を切れば、その奏者は死にます。けれど管を切り離さないのであれば、奏者は助かる代わりに、あなたの自由が犠牲になる。リリエル様、ルルハリル。あなたたちなら、どちらを選びますか?」

「その管は、私につながってるんですよね?」

「そうですね。隣のベッドへ管でつながれている、というのが正しいですね」

「でも、九か月待ったら、臓器提供者が来るんですよね?」

「そうですね。九か月待ったら確実に来られます」

「じゃあ、私は待ちます」

「そうなのですね。ですが、九か月、何も動けないのですよ。それでもいいのですか?」

「九か月動けないかもしれないですけど、それで人の命が助かるし。それに、その人、お話はできますか?」

「場合によっては、できないかもしれませんが」

「できるのであれば、おしゃべりしたりして九か月過ごせばいいと思います」

「それでは、もしその方がしゃべれなかった場合。一人で過ごすとなった場合でも、九か月待ちますか?」

「はい。おしゃべりできないのは寂しいですけど、その人の日々の変化とか見てもいいかもしれないですし。九か月間、動けなくても、考えることはできるので。いろんな物語とか思い出したりとかしたら、時間は早く過ぎるかもしれないです」

「なるほど。優しいリリエル様らしい答えですね。ルルハリル、あなたはどうですか?」

「そうだな。そのバイオリン奏者が俺と関係ない人だったら、別に管を切って離れるよ」

「そんな気はしていましたが。関係ある人だったらどうなんです?」

「関係ある人っつったら、リリエルかメイドぐらいだろう。まあ、それだったら少しは考えるけど。いや、リリエルだったら、むしろ切らないけど」

「私だったら、切る可能性があるということですか?」

「むしろ、お前のほうが『切れ』って提案するんじゃねえのか」

「たぶん、切らないと思いますよ。ルルハリルは」

「そうですか。どちらを選んでも構いません。これは、それを問われたときにどのように答えるか、というだけのものなので。どちらを選んでも、罪悪感や責任などを感じる必要はありませんよ」

また、思念が流れ込んだ。

――痛みは予感。解決の方法は、一つしかない。

メイドが瞬きをする。

第四章#

「せっかくですから、何か供えておきますか?」

木漏れ日の位置も、祠の戸の隙間も、最初に見たときのままだった。変わらない景色の中央で、メイドの声だけが初回と同じ調子に戻っている。

「はい。おにぎりを供えておきましょう」

「分かりました。では、おにぎりをお供えしておきますね」

あまりに自然に答えたリリエルへ、ルルハリルが目を向ける。

「適応力、高いな。だって、もう四回目だぞ」

「毎回、メイドさんは忘れてるみたいですね」

「なんでメイドは忘れて、俺たちは忘れてねえんだ」

「リリエル様、お供え、終わりましたよ」

「ここの祠に何が祀られているのか、少し確認します」

祠の札は、変わらず鏡像の文字を見せていた。

「やっぱり、ルルハリル。文字が反転してます」

「内容は、前と同じなのか?」

「文字がぼろぼろなので、読めないんですけど」

今度は、リリエルの右手とルルハリルの左手に痛みが走った。

「手がちょっと痛いです」

「どうかされましたか? どこかで切ったりとか」

「外傷はなさそうなんですけど」

「血が流れているなどは見受けられませんが、痛むのですか?」

「はい。でも、まあ、大丈夫です。ルルハリルは大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。それよりも、この痛みで思い出したことがある」

「思い出したこと?」

「俺たちがここに来る直前に、聞こえた声があるだろう。『痛みは予感、解決方法は一つしかない』って」

「はい。頭に直接」

「よく分かんねえけど、俺たちにそれを訴えかけてるんじゃねえのか」

「何を言ってるんですか、あなたは」

「メイドは何も分かんねえだろうよ」

「私たち、ループしてるみたいなんですけど」

「ループ?」

「全うな反応ですね」

「でも、ルルハリル。下山しても駄目でしたよ。どうすりゃいいんだ」

「あと行ってないとしたら、山頂か」

「そうですね。来たばかりですから、山頂には行っていないですけれど」

「だったら今度は、山頂に行ってみてどうなるか、確認する必要があるな」

「もしくは、毎回ここの祠なので、祠をもう少しよく見てもいいのかなって思いました」

「じゃあ、まずはそこから始めよう。他にどこか、変わりがあったりしないですかね」

祠の周囲を探しても、草木以外には何もない。

「変わりなさそうですね」

「だったら山頂だ。まあ、山頂に何かあるだろう」

「お二人は、何を求めていらっしゃるのでしょうか」

「メイド。これは何度も説明するの、本当は俺、得意じゃねえからよ。あれだけど。お前は、どこか体が痛むとかねえのか?」

「私ですか? 私は痛む場所などありませんが」

「ない。そうか。本当に、何度も繰り返してるって実感は、お前にはないんだな」

「何度も繰り返しているというのがよく分かりませんから、ないのではないでしょうか」

「そうか」

「でも、他にも何か反転してたりするかもしれないので、違いを探しに行きましょう。間違い探しってやつですね」

「そうだな。どっちにしろ帰れねえし、洞窟の中にも行けねえんだったら、山頂へ行って、そういうのがないか見る必要がある」

「はい。さっきの洞窟を、もう一度確認してもいいですし」

「まあ、どっちでもいいけどな」

「じゃあ、山頂に行きましょうか」

「そうですね。元々そこを目指してますからね」

「そうだったな」

「では参りましょうか。私が先導しますね」

三人が祠を離れて間もなく、参道の中央に、黒い正方形の箱が現れた。

置かれたのか。捨てられたのか。光を吸うように黒い箱は、周囲の景色から切り抜かれた穴のようにも見える。

「あれ。あんな箱、ありましたっけ?」

「なかったはずだ」

「ルルハリル。リリエル様を、できるだけ箱から遠ざけてください。何が起こるか分かりませんから」

「ルルハリルも、気をつけてください」

「私が道を先導して通り過ぎる。それでいいですね」

「まあ、通り過ぎて何もねえんだったら、大丈夫だろうよ」

「分かりました。では、まず私が通り過ぎてから、お二人が通り過ぎるというのが一番安全でしょうか」

「そうだな。一応、俺とリリエルは横に並んで歩いて、俺が箱側だ」

「分かりました。それが一番安全でしょう」

三人が箱の横を通り過ぎようとした、そのとき。

雑音の向こうから、切迫した男の声が聞こえた。

――負傷者は四名いる模様。一名は軽傷。三名、まだ車内に取り残されている模様。大至急、応援を求む。

続いて、思念が頭へ流れ込む。

――ブレーキ音のあと、世界は収束する。無傷が揃ったとしても、保証はない。

メイドが瞬きをした。

第五章#

「せっかくですから、何か供えておきますか?」

「おにぎりですか。分かりました。私が供えておきますね」

「ルルハリル、ちょっと待ってください」

今度は二人の左脚に、同じ痛みが走った。

「どうかされたんですか、リリエル様」

「左足が少し痛くて」

「左足が痛む。大丈夫ですか?」

「血とかは出てないので、大丈夫です。ルルハリルも痛いみたいなんですけど」

ルルハリルは痛む脚をかばいながら、メイドをまっすぐに見た。

「なあ。ここってさ、現実なのかな」

「現実? 何をおっしゃっているんですか」

「だって、現実に世界がループするなんて、ありえねえだろう」

「世界がループする?」

「何度も繰り返してんだよ。これも五度目なんだ」

「私もそう認識してます」

「そうですか」

「その一個前なんですけど、箱があって、そこを通り過ぎるときに何か聞こえたんです。何か聞こえましたか?」

「事故に遭ったニュースのような、でしたよね、ルルハリル」

「そうだ。車の事故だと思う」

「車の事故……。何か、バスで事故が起きて、それに巻き込まれちゃったんですかね」

「分かんねえよ。どうなったか」

「まだ山頂へ行ってないんだろう?」

「そうです。でも、何か違いがあるか探してみましょう」

三人は祠と洞窟を確かめた。札はやはり反転し、洞窟のランプとヘッドライトも変わらず燃えている。

「反転してます」

「反転している」

「反転してんのが、まずおかしい」

「先ほどと何も変わらないではありませんか」

「反転してないように見えるか?」

「反転しているように見えますよ」

「一回目のときとは、少なくとも何かが違うんだろう。この世界は」

「でも、ここにいたって変わらないですよね」

「それはそうだけど。このまま何か、指標でも何でも、決めないでやってていいのかよ」

「じゃあ、ちょっとの違いかもしれないんですけど。さっきからメイドさんにずっと先導してもらってるので、メイドさんは私の横を歩いて、ルルハリルに先導してもらうのはどうですか。少し、今までと違いを出してみるのはどうです?」

「そうだな。それをやってみよう」

「まあ、分かりましたが」

「後ろから何か来ないか見ててくれ」

「分かりました」

今度はルルハリルを先頭にして山頂へ向かった。黒い箱は、もうどこにもなかった。

「箱、ないですね」

「ないですね」

「一度きりか」

「そうみたいですね」

「俺たちにも、何も起こってない」

「そうみたいですね」

「もう、わけ分かんねえ。どうすりゃいいんだ、俺たちは。このループから抜けるために」

「こういうときは、せっかく山の頂上なので、深呼吸です。落ち着くことが大切ですよ」

「落ち着かねえよ」

山頂にも目立った変化はない。

「なあ、メイド。今回は何か、俺たちに質問はねえの?」

「質問は特にないですよ」

「今までお前は、ロールシャッハ・テストだったとか、バイオリン奏者の話とか、そういう話をしてきた」

「そういうお話、知ってますよ」

「今回は、そういう話はねえんだな」

「そうですね。特にありませんね」

「特にないのであれば、このまま帰ってみるのはどうですか。お昼ご飯を食べて」

リリエルは唐揚げをつまみ、いきなりルルハリルの口へ押し込んだ。彼は目を見開き、激しくむせる。

「よし。ピクニックしたので、じゃあ帰りましょうか」

山頂から帰ろうとしたとき、メイドが瞬きをした。

次の瞬間、ルルハリルの頭と、リリエルの全身に激痛が走る。

「大丈夫ですか、リリエル様」

「ちょっと、全身が痛くて」

「そんな、全身が痛むんですか」

「大丈夫かよ」

「歩けはします」

メイドの唇から、ふと、言葉がこぼれた。

「さっきは左足だったのに……」

「メイド、今なんか言ったか?」

「何も」

「『さっきは左足だったのに』って、言いました」

「言ったよな」

「そんなこと、言ったでしょうか」

「なあ。お前も覚えてるんだろう。教えてくれよ。なんで、お前は覚えてないふりをしてるんだ」

沈黙が落ちた。

風が、山頂の草を伏せて通り過ぎる。

「だんまりかよ」

メイドはしばらくリリエルを見つめたあと、静かに尋ねた。

「リリエル様。それは、命令でしょうか」

「話してほしいというのが命令であれば、私はその命に従いましょう。私は、あなた様のメイドですから」

「あんまり、命令って形は取りたくないです。でも、情報の共有というのは大切なことだと思うので。メイドさんだけじゃなくて、私も、ルルハリルも。何か分かったことがあれば、共有してください」

「命令ということでよろしいですか?」

「はい。私にも命令です。ルルハリルにも」

「分かってるよ」

「分かりました。命令というのであれば、すべてお話ししたいと思います」

メイドは一度だけ目を伏せた。

「お察しのとおり、私もループしておりました」

「そうなんですね」

「それも、リリエル様たちが気づかれる、ずっと、ずっと前からです」

「今、何回目でしたっけ、ルルハリル」

「六回目だろう」

「回数は、五十を超えたあたりから、数えることに意味がないと思い、やめました。正確な数は分かりかねますが、百回以上でしょうか」

「百回……。メイドさん、そのとき、私たちは気づいてなかったんですか?」

「そうですね。ここ数回から、様子がおかしくなってしまった。つまり、あなたたちが覚えている六回ほどでしょうか」

「でも、それは、メイドさん一人で心細かったですよね」

「いえ。私は、繰り返すしかなかったのですから」

「でも、どうして私たちに言わなかったんですか。繰り返してますって」

「そうだ。それを言ったほうが話が早かっただろうが」

「お二人とも、先ほどまでの私の態度を覚えておりますでしょうか。『何回もループしている』と言っても、私がしらけたように返したことがあったとしても、またループしたら覚えていない」

「そんなことがあるわけない」

「ルルハリル。あなたは以前、そう言っていたのですよ。とはいえ、覚えていないのですから、当たり前のことです。そこに責任を感じる必要はありません」

「じゃあ、メイドさんは私たちに伝えてくれてたけど、その都度、私たちが忘れちゃうから、もう言うことを諦めちゃってたってことですか?」

「諦めたというより、何回かループしていくうちに、私もなんとなくこの状況を理解しまして。本当は、お二人が気づかないまま、私が解決できれば、それでよいと思っていたのです」

メイドは二人を順に見た。その穏やかな顔の奥に、百回を超える孤独の疲れが、ほんのわずかににじんだ。

「けれど、気づいてしまった以上、私が推測している事実をお話ししたいと思います」

「頼む。何が起こってんだ」

「私がループをし始めたのは、三人で下山し、帰りのバスに乗ったあとのことでした。最後に聞こえてきたのは、車内に鳴り響くブレーキ音。これがどういうことか、私は一瞬で理解することができました」

メイドの声は、どこまでも平静だった。

「このループが終わるとき、私たちはあの場へ――帰りのバスの、事故の瞬間へと戻るのだと」

「そして、お二人が今痛む箇所は、そのまま現実世界に引き継がれるのではないか、と。あくまでも推測ですが、一パーセントでもリリエル様やルルハリルに害を及ぼす可能性があれば排除する。それが私のなすべきこと」

「私は、お二人の記憶が引き継がれていないことに、最初は心底安心しました。お二人が気づかないあいだに害を駆除し、何事もなくループから抜け出し、またいつもの日常に戻る。そのつもりだったのです」

「けれど数回前のループから、この世界にも異変が起こり始めました。それはお二人も知ってのとおり。今までなかったものがある。それに伴って、お二人の様子も変わってしまった。つまり、あなたたちに記憶が残り始めたころからです」

緑の山は、何も知らぬ顔で静まり返っている。けれど、その青空さえ、いまは薄い膜一枚で保たれているように見えた。

「この世界も、終わりが近いのでしょう。私も、ここまでということでしょうか」

「ですから、お二人には決めていただきたいのです。このまま限界まで繰り返すか。ループから脱出するか」

「脱出するほうがいいに決まってる」

「どこが痛むのですか?」

「俺は頭。リリエルは……」

「全身」

「じゃあ駄目だ。今は駄目だ。またループを繰り返して、ましな部分が痛む、あるいは痛まない状態にしてからだ」

「でも、時間が」

リリエルはメイドを見た。

「メイドさんも、どこか痛いんじゃないですか?」

「どうなんだよ。お前はどこが痛いんだ」

「私はスーパーメイドですから」

「ちゃんと情報は共有しましょうって、言いました」

「そうだよ」

「そうですね。痛むときもあれば、痛まないときもある。私が言えるのは、ここまでです」

「それでは、繰り返すということでよろしいですか?」

「当たり前だ。今このまま目覚めちまったら、俺はリリエルを守れないことになる。それは嫌だ」

「今まで痛かったのって、胸だったり、手足だったり、頭だったり……」

「でも、メイドは『痛まないときもある』っつった。痛まない回もあるんだろうよ」

「でも、それを繰り返すと、限界に来てしまいませんか?」

「私の直感からするに、残り、繰り返せる回数は四回までだと思います」

「四回……」

「けれど裏を返せば、残り四回は繰り返しができるということです」

「計算ができねえ。どのぐらいの確率なんだ。ましな方向になる確率っていうのは」

「今の二人は、頭と全身。まだ右手や左手、右足や左足のほうが、私はよいかと思われます」

「それはそうだな。だから今回は、繰り返すでいいはずだ」

「分かりました。それでは、繰り返すということでよろしいですか?」

「頼む」

メイドが瞬きをした。

第六章#

世界が裏返る。

リリエルは胸を押さえ、ルルハリルは全身を襲う痛みに歯を食いしばった。

「お二人とも、痛みはどうですか?」

「心臓の辺りが痛いです」

「じゃあ駄目だ。心臓は」

「俺は別にいいんだよ。リリエルがどうかが重要だ」

「ルルハリルがどうかも重要ですし、メイドさんがどうかも重要です」

「私は大丈夫ですよ」

「本当ですか?」

「本当です」

「本当だろうな。しらを切ってんじゃねえだろうな」

「私がしらを切っていたとしても、今回はお二人が重傷なわけですから、繰り返すほかないのではないでしょうか」

「あと三回か」

「ルルハリル、本当は痛いんだったら、ちゃんと痛いって。情報は共有してくださいって言いました」

「うるせえ。痛くねえよ。俺だって丈夫だ。体は鍛えてんだ。これぐらい」

「でも、とりあえず、もう一回ですか」

「もう一度、繰り返すでよろしいですか?」

「頼む」

メイドが瞬きをする。

次の世界で、リリエルの精神を、形のない痛みが蝕んだ。ルルハリルもまた、平然を装いながら耐えている。

空地の輪郭が、ごく薄く明滅していた。風は吹いているのに葉擦れの音が遅れて届き、世界そのものが反復に追いつけなくなっている。

「お二人とも、どうですか?」

「俺は大丈夫だ。リリエル、お前はどうだ」

「精神が痛い」

「じゃあ駄目だ。リリエル、大丈夫か?」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないじゃないですか」

「だって、二人が大丈夫って言うんですもん」

「ルルハリル、あなたも大丈夫ではないですよね」

「俺も大丈夫じゃねえ」

「大丈夫じゃないじゃないですか」

「うるせえよ」

「それでは、繰り返すでよろしいですか?」

「くそ。頼む」

「まだ残り二回ありますから」

メイドが瞬きをする。

世界が明滅し、痛みの位置が再び書き換わる。

「どうですか、お二人とも」

「俺は平気だ」

「ルルハリル。情報は共有ですよ」

「リリエル、どうなんだ。お前は」

「ルルハリルが平気っていうなら、平気です」

「リリエル様もルルハリルも、私にはお見通しですよ」

「胸が痛いです。でも、もう……」

「リリエルが平気であれば、それでいいんだよ」

「リリエル様。本当に痛むのはどこですか?」

「胸が痛いです」

「胸が痛い状態で、本当に戻していいと思うのですか、ルルハリル」

「それは駄目だな。くそ、あと一回か。あと一回しかねえのかよ」

「そうですね。本当に次が最後のループになります」

「繰り返してもよろしいですね?」

「これ以上、最悪になることはないと思うので」

「分かりました」

メイドが、最後の瞬きをする。

世界が砕ける寸前の鏡のように、細かく揺れた。

そして三人は、最後の痛みを得た。

「どうですか、お二人とも」

「全身が痛いかも」

「俺も、全身が痛い」

「ルルハリルもですか」

「繰り返せないのか。まだ。もう無理なのか」

「繰り返したいのは山々ですが、もう、この世界は限界なのです。ずっと、ずっと、何百回も繰り返してきましたから。これが最後の一回だと、先ほども言いましたよね」

「言ったけどよ。でもそれは、メイドの感覚だろうが。本当にそうなるか分かんねえだろ。まだ繰り返せるかもしれねえじゃねえか」

「ルルハリル。メイドさんが、そんな意地悪したりしないですよ」

「そうですよ。私も、リリエル様のことが一番大事ですから」

「それに、全身が痛いですよ。でも、痛いってことは、生きてるってことじゃないですか」

「考えられるなかで、最も最悪な痛みだろ。だって全身だぜ。相当なことじゃねえか」

「でも、どうすりゃいいんだ」

リリエルは痛みに耐えながら、途切れ途切れに言葉をつないだ。

「あとどれくらい繰り返せるかって分かった状態で、私たちは繰り返したんですよ」

「そうですね」

「ここに残るって選択はできねえのかな。俺はもう、何度でもループしてやるよ」

「ルルハリル」

「うるせえよ」

「けれど、もうループはできないのです。ループができないというより、この世界そのものが壊れると言ったほうが正しいでしょう」

ルルハリルの拳が震えた。

「俺は、あのとき誓ったんだよ。リリエルの手を取った、そのときに。こいつにすべてを、俺の残りの人生を捧げるって」

「ルルハリル……」

「何かねえのかよ」

「残念ながら」

「でも、事前に分かってるのは、いいことですよ」

「いいことだって? 何が分かっていて、何がいいんだよ」

「何も分からないまま、その場で倒れてるより、全身が痛いんだって分かってたら、それに合わせてルルハリルは対処ができます」

「対処? この俺に何ができるっていうんだ。怪我の治療もまともにできねえ俺が、お前を助けられるって?」

「でも、そういうふうに考えないと」

「そうですよ、ルルハリル」

ルルハリルは、どこにもいないものを睨むように空を仰いだ。

「なんで神様って、俺たちを見放すんだよ。そうやって、何度も何度も」

「何度も何度も、助けてもらってるんですよ」

「そんなの、助けたうちに入らねえだろう」

「そうですね。私もそう思いますが。けれど、そもそもこのループ自体を用意してくれたのが、神様なのかもしれません。選択の余地があった。それだけでも私たちは、十分恵まれていたのではないでしょうか」

「なあ。リリエルの痛みを、全部俺が受け持つことはできねえのか。方法がねえのかよ」

「メイド。お前は俺たちよりも早く目覚めて、たくさんのことを知ってるんだよな。もしかしたら、その方法を隠してんじゃねえのか」

「なぜ私が隠さなければならないのですか」

「一度、隠しただろうが」

「それは、リリエル様のためになることでした。もし、そんな方法があるのであれば、こんなループなんて最初からせずに、私が一人で引き受けていたに決まっているではないですか」

「くそ……くそ」

「メイドさんも、ルルハリルも。それは、嬉しくないです」

「そうですよね。リリエル様なら、そうおっしゃると思っておりました」

「全身が痛いですよ。頭も痛いし、腕も、足も痛いです。でも、じゃあルルハリルは、私の全身が痛いから、もう諦めるんですか?」

「諦めねえよ。諦めねえけど」

「そうですよ。全身が痛むといっても、最悪なことが起こるかは、出てみないと分かりませんから。何か、足も動かなくなってたとしても。でも、さっき言ったみたいに、考えることができるかもしれないですし」

洞窟の岩壁に浮かんだ影。病院のベッドにつながれた、見知らぬバイオリン奏者。あの思考実験を、リリエルは覚えていた。

「そしたら、ルルハリルとメイドさんが、私にいっぱいお話ししてください」

「分かりました」

「ね、ルルハリル。お話ししてくれますか?」

長い沈黙のあと、ルルハリルは答えた。

「じゃあ、お前が――リリエル、お前が意識を保っていられるように、頑張るよ」

「はい。私も、今からそうなるんだって思って、頑張って意識を保てるようにします」

「リリエル様……」

「むしろ、二人のほうが大変ですよ。戻ったときに、私を助けるっていうんだったら、すごく、すごく大変ですよ」

「そうですね。私は、もしリリエル様の身に何かあっても、絶対に、絶対におそばにおりますので」

「ルルハリル。戻ったら、すぐにリリエルのもとへ駆けつける。少しでも怪我がましになるように、頑張ってみるよ」

「はい。私も頑張ります」

メイドは二人の答えを確かめるように、ゆっくりとうなずいた。

いつの間にか風は止み、森は息を潜めていた。三人のあいだに残るのは、互いの呼吸と、これが最後だという静かな実感だけだった。

「それでは、ループから抜け出しますが、よろしいですか?」

「はい」

「はい」

メイドが瞬きをした。

第七章#

ブレーキ音が、世界を引き裂いた。

気づいたとき、三人は帰りのバスにいた。

対向車線から、無茶な速度で車が飛び出してくる。運転手が急激にハンドルを切った。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく傾く。

バスは参道を外れ、横転した。

砕けるガラス。ねじれる金属。燃え上がる火。吹き上がる黒煙。

そして、遠くから近づいてくるサイレンの音。

世界は一度、暗闇に閉ざされた。

次にまぶたが開いたとき、そこは病院だった。

エピローグ#

消毒薬の匂いがする。

白い天井。白いカーテン。規則正しい機械音。

ルルハリルは奇跡的に無傷だった。リリエルは全身に重傷を負ったものの命に別状はなく、後遺症も残らないという。ただし、回復には一か月ほどの入院が必要だった。

ベッドの上で、リリエルがうっすらと目を開く。

「リリエル!」

ルルハリルの声が、静かな病室に響いた。

「よかった。意識あるな。大丈夫かよ」

「なんか、どこもかしこも痛いです」

「動こうとするな。もう十分伝わった。分かったよ。でも、大丈夫なんだな。命に別状はないとか、医者は何て言ってたんだ。いや、分かんねえか。くそ、俺は……」

「自分のことは、自分が一番分かるので。こうやってお話しできてるので、大丈夫ですよ」

「そっか」

隣のベッドを覆うカーテンの向こうから、かすかな気配がした。

「メイドは?」

「はい。私はここにおりますよ」

カーテンが静かに開かれる。メイドも胸に怪我を負い、二週間の入院が必要だった。それでも、その表情はいつもと変わらない。

「よかったです。大丈夫かよ」

「大丈夫ですよ。私を誰だと思っているんですか?」

「人間だろ、お前も」

「私の、頼れるメイドさんです」

「そうですね。私がリリエル様を置いて、いなくなるわけないじゃないですか」

「それに、ルルハリルは私の頼れる執事さんです」

「な、なんだよ急に。別に……」

ルルハリルが目を逸らし、病室へ気まずい沈黙が降りる。メイドが、その静けさを破った。

「何はともあれ、お二人とも命があってよかったです。本当に」

「メイドさんも、本当によかったです。一番大変だったのは、メイドさんですよ。何百回も覚えてたなんて」

「そうですね。もしかしたら、あの世界が崩壊しかけたり、異変が起こり始めたのも、私が何百回と繰り返すうちに、自分では大丈夫だと思っていても、精神がすり切れ始めていたのかもしれない――なんて。まあ、終わったことですから。今はただ、全員が無事なことを喜びましょう」

「ありがとう」

リリエルは、包帯の巻かれた体で、それでも明るく笑った。

「じゃあ、みんな元気になったら、またピクニックに行きましょう」

「そうですね」

「あの山はもうごめんな。また別の場所でな」

「はい。今度は、きれいな花畑とかがいいですかね」

「花畑か。いいですね」

「人がいなかったら、ありだ」

「人がいないところを見つけるほうが、この世の中、難しいかと思いますが」

「うるせえ」

「まあ、それだけ口が利ければ、十分元気な証拠ですね」

リリエルは、ふと何かを思いついたように声を上げた。

「そうだ」

「なんだ?」

「私もメイドさんも、見てのとおり動けないので、ルルハリルは私のこと、よろしくお願いします」

「そうですよ」

「分かってるよ。毎日来てやるよ」

ベッド脇の機械が規則正しく鳴り、開いた窓から春の空気が細く流れ込む。事故の前と変わらない軽口が続くことに、三人とも言葉にはしない安堵を覚えていた。

「はい」

「その、俺、料理とかは見てのとおり……いや、分かってると思うけど、できねえから。コンビニ弁当とか」

「病院が料理を用意してくれるに決まってるじゃないですか。コンビニ弁当なんて、リリエル様に食べさせられるわけないでしょ」

「ルルハリルは、私たちが元気かどうか確かめに来てくれるだけでいいですよ」

「やることねえし、なんならずっとここにいるよ」

「たぶん、病院から追い出されますよ」

「なんでだよ」

「それがルールだからです」

「じゃあ、病院の外で待ってるよ」

「不審者として通報されないでしょうか」

「ちゃんと教えたら大丈夫です」

「リリエル様がそうおっしゃるのであれば」

「それでだな。一ついいか」

「何ですか?」

「俺が、あれだ。最後のループのときに、なんか誓ったんだとか、何とか言ったけど。全部忘れろ」

「覚えてない、覚えてない」

「それでいい。悪い。なんでもない、なんでもない」

「この人、自分で墓穴を掘りましたよ。言わなければよかったものを」

「ルルハリルは、こういうところがいいところですよね」

「そうですね」

「ああ、俺、もう帰る!」

耳まで赤くしたルルハリルは、病室の扉へ向かった。

その背中を、リリエルとメイドの笑い声が追いかける。

窓の外には、鮮やかな青空が広がっていた。

閉じて、開いたまぶたの向こうにある、今度こそ一度きりの世界。

その春の光の中で、三人の新しい日常が始まろうとしていた。