リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:PL 四季凪アキラ・セラフ・ダズルガーデン/DL 雪城眞尋「#るむふぉシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=Fyo8TOprLw8
これから観測される結末は、確定していないが避けようのない厄難だ。
願わくは、閉じて開いた対称の輪郭が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
四季凪アキラ
セラフと共に何でも屋を営む青年。バスで出会ったナナの話を聞き、山頂まで同行してほしいという依頼を受ける。
セラフ・ダズルガーデン
山歩きが好きで、四季凪を登山へ誘った青年。穏やかにナナの乗り物酔いを気遣い、彼女から事情を聞く。
ナナ
運気を開くパワースポットを目指す、ひどい方向音痴の少女。家の仕事で使う刀と大きな荷物を携え、一人では迷いそうだと二人に同行を頼む。
第一章動画で見る#
古い路線バスが山道のカーブを曲がるたび、窓から射す光が座席の上を滑った。
向かいの席にいた少女が、青ざめた顔で口元を押さえている。彼女はためらいながら、四季凪とセラフへ声をかけた。
「すみません。少し酔ってしまって……目的地に着くまで、お話ししてもらえませんか。気を紛らわせたくて」
「大丈夫ですか。薬は持ってないんですが、窓を少し開けましょうか」
「酔い止めの飴ならあるけど、今からでも効くかな」
「外を見ながら話すだけでも、少しは楽になるかもしれないね」
「ありがとうございます。自分から声をかけたのに、名乗るのが遅くなりました。私、ナナと言います」
「俺はセラフです」
「四季凪です。よろしくお願いします」
ナナは胸元の荷紐を緩め、ようやく浅い息を吐いた。
「お二人は、何をしにこの山へ?」
「最近、俺が山歩きを好きになって。四季凪を誘ったんです。ナナさんも登山が趣味ですか?」
「趣味というわけではないんです。この山がパワースポットで、運気を開いてくれる、いいことが起きるという噂を聞きました」
「そういえば、案内にそんなことが書いてあったな」
セラフは、ナナの腰に下がった立派な刀へ目を留めた。
「剣道か何かをしてるんですか?」
「これは護身用です。山では何があるか分かりませんから」
「備えはあるに越したことないですからね」
「ところで、お二人はどういうご関係なんですか。お友達ですか?」
「古い友人で、今は仕事仲間でもあります」
「何でも屋みたいなものだね。困っている人から依頼を受けて、手助けをする」
「依頼するのには、やっぱりすごくお金がかかりますか?」
「どんぐり三つで受けることもありますよ」
「どんぐり三つ?」
冗談だと気づかず、ナナは真剣に聞き返した。
「場合によります。仕事の内容と、依頼人の事情を見て決めるので、法外な値段にはしません」
「では、私も今から依頼できますか?」
四季凪とセラフは顔を見合わせた。
「まずは内容を聞きましょう」
「難しいことではないんです。私、かなりの方向音痴で。一人だと迷いそうなので、山頂まで一緒に行ってほしいんです」
「俺たちも遊びに来ただけですし、そのくらいなら」
「本当ですか。でも今は、どんぐり三つも持っていなくて。お弁当のおにぎりなら――」
「冗談ですよ。道中で見つけたら、どんぐりをもらいましょうか」
「必ず探します。ありがとうございます」
話しているうち、ナナの顔色は少しずつ戻っていった。
バスが停留所へ着く。時刻表には日に数本しか便がなく、一本逃せば次は二時間後だった。
「やっぱり田舎ですね。最終便を逃したら終わりだ」
「それがよくて来たんだけどね。自然の中なら、どこでも寝られるし」
「泊まるような装備ではありませんよ」
「山を登って降りるくらいで二時間でしょう。帰りに遅れないようにしましょうね」
三人は木陰の参道へ入った。湿った土が靴底へまとわりつき、不揃いな石段がふくらはぎへ疲労を溜めていく。
「これ、あとどのくらい?」
四季凪が息を切らすと、セラフが振り返った。
「疲れるの早いな。案内するって言ったのに」
「思ったより道が険しいんですよ。筋トレが足りない」
「四季凪より、ナナさんの方がまだ行けそうだ」
「体力だけは自信があるんです。それ以外は、てんで駄目なんですけど」
「体力さえあれば、ほかのこともカバーできますよ。人生で大事なのは体力です。道に迷っても、体力があれば何とかなる」
四季凪はナナへ小声で忠告した。
「彼の話は半分くらいで聞いてください」
「えっ。分かりました」
「素直に信じないでよ。体力は大事でしょう?」
ナナは二人の応酬を、羨ましそうに見つめた。
「お二人は、本当に仲がいいんですね」
「腐れ縁みたいなものです」
「こいつなんて、いないならいないでいいですよ」
「すごく楽しそうな顔で言ってます」
歩きながら、ナナは何度か言いかけては口を閉じた。
「私には、お二人みたいな友達がいないんです。友達を作るコツって知りませんか」
「普段、周りにいるのはどんな人たちです?」
「家族がほとんどです。七人きょうだいの一番下で、だから名前もナナなんです」
「そういうことだったのか」
「上のみんなにできることが、自分だけできないことが多くて。だんだん自信がなくなって、自分から声をかけるのも苦手になりました。今日は具合が悪くて、お二人が優しそうだったから、声をかけざるを得なかっただけで」
四季凪はすぐに答えず、歩調をさらに緩めた。
「でも、こうして新しい関係ができたでしょう。そんなに不安にならなくても大丈夫です」
セラフも頷く。
「眼鏡をかけたお兄さんみたいな人が、また友達になってくれますよ」
「それに、俺たちでよければ、もう友達になれます」
ナナは足を止めそうになり、慌てて二人へ追いついた。
「お二人が、友達になってくださるんですか?」
「いいとか悪いとか、許可を取ることでもないでしょう。ここまで一緒に山を歩いたら、もう友達です」
「ありがとうございます。私もいつか、お二人みたいな唯一無二の友達――親友ができたらいいなと思います」
「作ろうとして無理に作るものでもないですよ。話しているうち、気づけば隣にいる。俺たちはそんな感じでした」
「肩肘を張らなくていい。相手を知りたいと思った時に、少しずつ話せばいいよ」
「分かりました。頑張ってみます……あ、頑張りすぎなくていいんでしたね」
その律儀な言い直しに、二人は同時に笑った。ナナも遅れて笑い、三人の間にあった遠慮が一枚剥がれた。
「せっかくの山です。リフレッシュしましょう」
「そうですね。あともう少し、四季凪さん、頑張ってください」
「俺の応援に戻ってきた。よし、行きましょう」
やがて木々が開け、その奥に古びた祠が現れた。注連縄のかかった姿は、放置されながらも神聖な空気を残している。
「ここが、噂のパワースポットでしょうか」
第二章動画で見る#
祠の戸はわずかに開いていた。乾いた木と湿った苔の匂いが混じり、奥の札は墨も紙も傷んで読めない。長く手入れされていない様子に、ナナは寂しそうな顔をした。
「祠があるなら、ここにも神様がいるんですよね」
「そうだろうね。管理する人がいないわけではないと思うけど、しばらく放置されている感じだ」
「私、パワースポットを見つけたら供え物をしようと思って、お昼と一緒におにぎりを作ってきたんです。塩むすびでも大丈夫でしょうか」
「お塩は清めにも使うし、むしろいいんじゃないかな」
「具が入っていて、神様の苦手なものだったら大変ですからね」
「ツナマヨで、急にマヨラーの神様になってしまうかもしれない」
「神様にも好き嫌いがあるんでしょうか」
「八百万というくらいだから、いろんな神様がいるでしょう」
ナナは塩むすびを両手で丁寧に供え、掌を合わせた。
「本当の友達ができますように」
セラフも戸口の暗がりへ軽く頭を下げる。
「いつもありがとうございます。これからも、うちのことをよろしくお願いします」
四季凪はそれより長く考え、真剣な顔で手を合わせた。
「家の家電が、長持ちしますように」
「それでいいんですか、お願い事」
「急に壊れたら困るでしょう。大きすぎる願いは、私には過ぎたものです」
ナナが不安そうに俯く。
「それなら、友達がほしいという私の願いは大きすぎますかね」
「そんなことはありません。願うくらい、誰に遠慮する必要もないですよ」
三人は祠を離れ、再び山頂を目指した。
「まだ上がるのか……」
「大丈夫です。四季凪は、なんだかんだ言いながら歩きますから」
「私がもっと力持ちなら、おんぶできたんですけど」
「会ったばかりの女の子に背負わせるなんて、情けなさすぎる。ほら、歩け」
「分かった。行きますよ」
ほどなく、参道脇の岩肌に大きな洞窟が口を開けていた。
「野生動物は大丈夫かな」
「今の季節なら、熊は冬眠してるんじゃない?」
「奥に、さっきみたいな祠があるかもしれません」
「人が掘った可能性もありますね。行ってみましょうか」
セラフが先に立つ。
「何かあっても、俺が何とかします」
「かっこいい。では私も、後ろを何とかします」
「後ろは、しんがり担当でお願いします」
洞窟の奥は浅く、土と石以外に目立つものはなかった。
「意外と何もなかったな。急に雨が降ったら、雨宿りには使えそう」
「ここで泊まると言ったのかと思いました」
「その可能性もあるよ。山では何が起きるか分からないから」
「万が一の冗談ですよね?」
「もちろん」
三人は拍子抜けした顔で外へ出た。少し歩いて雑木林を抜けると、視界が一気に開ける。山頂の風が、洞窟の冷気とは違う明るさで頬を撫でた。
「着いた。これが登山の魅力だよね」
「空気もきれいで、天気も晴れて、本当に気持ちいいです」
ナナが弁当箱の蓋を開く。
「私、作りすぎてしまったので、よかったら食べませんか。唐揚げと卵焼きくらいですけど」
「それで十分です。依頼の報酬、どんぐりじゃなくて弁当でもよかったかもしれない」
「次に会う時は、多めに作ってきますね」
四季凪は唐揚げを一口食べ、生姜の香りに目を細めた。
「よく揚がってる。生姜が効いていて、おいしいです」
「そんなことまで分かるんですね」
「彼は料理長ですから。並々ならぬこだわりで、いろんな機材を使ってます」
「最近は、トマトと卵の中華炒めを作りました。家で鶏チャーシューも」
「誰かに習ったんですか?」
「全部、自分で。料理は楽しいですよ」
「ナナさんも、こんなにたくさん自分で作ったんでしょう?」
「料理ができないと、って母に言われて。七人きょうだいの一番下なので、上のみんなに追いつきたくて、家の手伝いをしながら覚えました」
「十分、家族の力になってますよ。俺も四人きょうだいで、一番下が奔放だから、ナナさんを見ると新鮮です」
「四人も多いですね。自分の家のことは慣れているのに、人から聞くと驚きます」
セラフも、気が向いた時には料理をすると話した。
「たまにしか作らないのに、毎回凝ったものになるから、手料理と言える普通のものがないんだよね」
「帰り道で、料理の話をもっと聞かせてください」
「普段から作っている人に、俺たちが教えられるかな」
「じゃあ、最近買ってよかった調味料ベスト十を、一つずつ」
「気になります。でも、そろそろバスの時間です」
三人は楽しい昼食を終え、山を下った。帰りのバスへ乗り、同じ席で少し眠った。そこで一日が終わるはずだった。
――本当の友達ができますように。
願いが頭の中へ蘇り、ナナが瞬きをする。
次に目を開いた三人は、再び祠の前に立っていた。四季凪の右足と、セラフの左手には、傷のない皮膚の奥から痛みだけが走っている。
「筋トレをやりすぎたかな。右足がぴりぴりする」
「俺も左手に違和感がある。右が使えるからいい、ということでもないけど」
ナナが心配そうに二人を見る。
「山登りが大変だったんでしょうか。どこか捻ったりしました?」
「それより、ここは……俺たちは山頂で昼を食べて、帰りのバスに乗ったはずです」
「私たち、まだ登り始めたばかりですよ。山頂には行っていません」
「戻ってきたにしては、さっきと少し違う」
四季凪とセラフは顔を見合わせた。ナナの困惑に嘘はない。
「そういうことだな」
「そういうことですね」
「何が、そういうことなんですか?」
二人はまだ説明せず、祠での願いを尋ねた。セラフは、神の前ではいつも感謝と挨拶だけを告げる。四季凪は今度、美味しいクラフトコーラに出会えますようにと答えた。
「家電じゃないんだ」
「何の話です?」
「いえ、最近流行ってますからね、クラフトコーラ」
痛みはあるが、二人ともまだ登れる。三人はゆっくり話しながら、もう一度山頂へ向かった。
「ナナさん、乗り物酔いはもう大丈夫?」
「自然の空気を吸ったら、逆にリフレッシュできました。お二人こそ、痛いんでしょう?」
「もう慣れました。歩けないほどではありません」
「最悪、四季凪くらいなら俺が背負います」
「いい、いい。自分の足で歩く。最悪、引きずるなんて言わないでください」
話題は、この山に感じる不思議な気配へ移った。舗装も管理も十分でない山には、熊だけでなく、主や何かの伝承が残っていてもおかしくない。
「俺、そういうオカルトは大好きなんだよね」
「私は、山のものを不用意に刺激しない方がいいと思います」
「丁寧に接するに越したことはない。でも、今のところ怖い感じはしませんよね」
「祠にも、神聖な感じはありました」
ただ登っていると疲労ばかりを意識してしまう。セラフは木の種類が標高でどう変わるか、階段を仕切る丸太が朽ちて虫の住処になっていることを見るのが好きだと話した。
「虫の話はちょっと……。そうだ、最近テレビで見て気になった話があります。お二人は思考実験がお好きですか?」
「心理学なら少しかじっています」
「では、トムソンのバイオリン奏者は?」
「初めて聞きました」
「知ってる流れじゃなかったんですか」
ナナは思考実験を説明した。
目覚めると、見知らぬ有名なバイオリン奏者と、同意もなく管で繋がれている。九か月後に臓器提供者が現れるまでそのままでいれば相手は助かるが、自分の時間と自由は失われる。外せば自分は自由になるが、相手は死ぬ。
「自分が死ぬわけではなく、自由を失うだけですか?」
セラフが確かめる。
「はい。ただ、仕事にも行けず、会いたい人にも会えません」
「なら、俺は九か月待ちます。自分もバイオリンを弾くので、奏者を失いたくない気持ちはありますけど、相手が普通の知らない人でも答えは変わりません。一年弱なら待てる」
四季凪も頷いた。
「私も、九か月で一人を助けられるなら待ちます。相手が奏者でなくても」
「では、医師の話が本当か分からず、自分が死ぬ可能性もあるなら?」
二人の答えは、慎重になった。
「見極めたいですね。自分一人の命ではないので」
「妻子がいるみたいな言い方になってますよ」
「そういう意味ではなくて。一緒に仕事をしている人や、期待してくれている人がたくさんいる。その人たちと話し、何を残しているか考えて決めたいんです」
「大家族会議だね」
「成し遂げてから死にたいことはあります。それは自分一人だけのものでもない。だから、死ぬかもしれないなら断る可能性があります」
セラフも同じだった。確実に生きられるなら、九か月は喜んで差し出す。だが自分が死ぬ条件なら、待っている人を置いていくことはできない。
「ナナさんは?」
「私が考えていたことを、二人が全部言ってくれました」
「正解のない問いですから、何を考えるか自体が答えなんでしょうね」
「人によって違う答えを聞くのが好きなんです。普段は性格診断や、もっと簡単な心理テストを見ますけど」
「サイコパス診断みたいな?」
「自動販売機で何色の飲み物を選ぶか、というやつですね。赤を選ぶとサイコパスなんですか?」
「赤は、サイコパスになりたい人が選ぶ答えらしいです。正解は透明。不純物が見えやすいからだとか」
「なりたい人の答えだったんだ」
笑いが戻った直後、声ではないものが三人の頭へ流れ込んだ。
――痛みは予感だ。それでも、解決の方法は一つしかない。
ナナが瞬きをした。
第三章動画で見る#
瞬きのあと、三人はまた祠の前へ戻った。
木漏れ日の角度まで同じなのに、セラフの痛みだけが消え、四季凪の右足には違和感が残っている。
「さっきまで左手が痛かったのに、もう何ともない」
「馴染んだのか?」
「そういう馴染み方はしないでしょう。四季凪は?」
「右足は、ずっと同じように痛い」
「お二人とも、さっきから何の話をしているんですか」
ナナには思考実験の会話さえ残っていない。四季凪は時刻、祠、供え物を順に確かめた。塩むすびは置かれたばかりで、時計も登り始めて間もない時刻を示している。
「俺たちの記憶と痛みだけが、同じようには戻らないらしい」
「デジャヴで済ませるには具体的すぎるね」
「祠の周りを調べてみましょう。壊さないように」
古びた祠以上のことは分からない。四季凪が考え込む横で、セラフは先を指した。
「悩んでいても仕方ない。登ろう」
「この能天気め。こっちは必死で考えてるんですよ」
「足が痛いなら、無理しなくていいですよ。テーピングも持っています」
ナナが申し出ると、セラフも続けた。
「最悪、四季凪くらいなら俺が背負うから」
「だから、そういうのはいい。自分で歩く」
三人はもう一度、洞窟へ向かった。
「この洞窟、こんな形だったっけ」
「穴があったら入りたいよね」
「何か恥ずかしいことでもあったんですか?」
「そういう『穴があったら』じゃない」
「では、ナナさん。しんがりをお願いします」
「その台詞、前にも聞いた」
中へ入ると、前の周回にはなかった火が燃えていた。割れたランプと、車体から剥がれたようなヘッドライトが岩壁を照らしている。
「ランプが燃えているなら、捨てられたのは最近かもしれない。古ければ燃料は尽きているはずです」
「でも車体はない。軽自動車くらいなら入れそうだけど、そもそも、なぜ洞窟へ車で入る?」
「火事になったらまずい。消防へ――圏外ですね」
「持ってる水と土で消そう」
三人は火を消した。ヘッドライトだけが白く残り、影を岩壁へ押しつける。
「誰かいますか。怪我をしていませんか」
返事はなく、洞窟の奥へ声が吸い込まれていった。
ナナは岩壁の影を指した。
「あれ、狐の顔に見えませんか。真ん中の細いところが目みたいで」
「祠は稲荷系だったのかな」
セラフは少し不安そうに、稲荷の祠で願いが叶ったなら、きちんと礼参りをしないとよくないことが起きるという話をした。
「これは、礼参りをしなかった人の末路?」
「縁起でもないことを言わないで」
四季凪は影の下側を見た。
「俺には大きな口に見えます。こちらへ襲いかかってくる獣みたいな」
「私は、大きな蛾かな。羽を左右へ広げている」
「同じ影を見ても、全然違うんですね」
「左右対称だから、さっき話した心理テストにも似てる。紙へインクを垂らして、二つ折りにして開く、ロールシャッハ・テストです」
「答えが違うこと自体に、意味があるんでしょうか」
声ではない言葉が頭の奥へ響き、三人は同時に息を止めた。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
ナナが瞬きをする。
祠へ戻ると、ナナは左手を押さえ、セラフは胸を押さえた。それまでの痛みは消え、新しい場所だけが疼いている。
「ちょっと胸が痛い」
「恋ですか?」
「家系ラーメンを昼に食べたから、胸焼けかもしれない」
「登山前に家系を食べたんですか。力をつけるにも重すぎません?」
「俺はもう平気です。ナナさんの乗り物酔いは?」
「自然の空気で、すっかりよくなりました。でも左手が、捻ったみたいに痛みます」
四季凪は、とうとう言葉を選ばずに話すことにした。
「俺は、この時間を四回繰り返している気がします」
「四回もこの山へ来たんですか?」
「この山に来たのは今日が初めてです。同じ今日を、四回です」
「彼が四季凪と呼ばれる由縁だ」
「四季を繰り返すという意味じゃないし、ボケてる場合でもない」
セラフにも同じ既視感があった。二人がまだ聞いていないはずのナナの好みや、弁当の中身を言い当てると、ナナの顔が強張る。
「ナナさんは心理テストが好きですよね」
「どうして知ってるんですか?」
「今日の弁当は唐揚げと卵焼き。作りすぎたから、俺たちにも分けてくれる」
「言いましたっけ。初対面なのに……」
「ストーカーじゃありません」
「勝手に犯罪者にしないでください。俺たち二人が、同じ記憶を持ってるんです」
ナナは困惑しながらも、二人が冗談を言っていないと認めた。
「山へ来たきっかけに、何か心当たりはありませんか」
「運がないんです。外へ出るとすぐ雨が降ったり、何もないところで転んだり。おっちょこちょいとも言えますけど、この山へ登ればいいことがあるという噂を聞いて」
「いいこと、か。俺の胸は痛んでるから、ときめいているのかもしれない」
「それは、いいことなんでしょうか」
四季凪は、さっきまで右足だった痛みが、今は左腕へ移ったことも伝えた。直近に腕を鍛えた記憶はなく、筋肉痛では説明できない。
「答えにくければ、答えなくてもいいんですけど。その刀と家の仕事は、何か関係がありますか?」
「あまり人に話すなと言われています。家族の仕事で使うものです」
「分かりました。私たちも、人に言えない家庭事情はありますから」
「まだ違和感を十個くらい挙げられそうだけど、今は先へ行こう」
三人が山頂へ向かって歩き出すと、参道の中央に黒い正方形の箱が現れた。置かれたのか捨てられたのかも分からず、自然の中でそこだけ異様な直線を持っている。
「最強が封印されている箱ですか?」
「獄門疆じゃないでしょう」
「素材すら分からない。金属みたいだけど、近づくのもためらうな」
「危ないかもしれないから、ナナさんは離れていてください」
「お二人も離れた方が」
「大丈夫。筋トレしてるから」
「筋トレは万能じゃありません」
「危険物の扱いには多少慣れています。俺たちが見ます」
四季凪とセラフは、ナナを背へ庇いながら黒い箱へ近づいた。
第四章動画で見る#
箱へ近づくと、内側から無線のような雑音が漏れた。
――三人、まだ車内に取り残されている模様。至急、応援を求む。
切迫した声に続き、思念が頭の中へ流れ込む。
――ブレーキ音の後、世界は収束する。無傷が揃ったとしても保証はない。それでも――。
ナナが瞬きをする。
「本当の友達ができますように」
三人はまた祠へ戻っていた。四季凪は右足、セラフは胸に痛みを感じている。
「また右足だ」
「やっぱり、これは恋かな」
「肋骨が折れてるか、恋ですね」
「肋骨が折れてる人を笑わせないで。痛い」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫。心配しないで」
二人は、もうナナへ隠さないことにした。
「ナナさん。この世界は、どうやら回っています」
「回っている?」
「この祠へ来るのは五回目くらい。今日が初めてなのに、同じ今日を繰り返しているんです」
四季凪とセラフは、ナナについて知っていることを挙げた。心理テストが好きなこと。弁当に唐揚げと卵焼きが入っていること。不運に悩んでいること。家の事情で刀を持っていること。
「全部知ってるみたいに並べると、普通に気持ち悪いよね。俺だったら通報してる」
「俺も逃げます。でも二人でここまで話を合わせられるなら、ブロードウェイへ出られるほどの演技力ですよ」
「ドッキリ企画でブロードウェイは嫌だな」
ナナは二人の目を順に見た。
「冗談で言ってる感じではないですよね」
「ええ。洞窟のランプとヘッドライト、道の黒い箱。異変が起きるたび、ナナさんが祠で同じ願いを口にして、またここへ戻る」
「箱の無線は、三人が車内に残されていると言った。ここにいる人数と同じです」
「私は、そんな声を聞いた覚えが……」
ナナは祠を振り返った。自分が置いた塩むすびも、これまでの道の会話も覚えている。それなのに二人の話だけが、その先へ何周分も続いていた。
「この祠は、大丈夫な神様なんでしょうか」
「今の俺たちから見れば、大丈夫ではない寄りですね」
「何かきっかけがあったはずです。ナナさんは普段から乗り物酔いを?」
「はい。車には酔いやすいです」
「腰の刀が妖刀だったり?」
「村正とか村雨とか?」
「そういうものではありません」
冗談を挟みながら先へ進もうとした時、ナナが言った。
「帰り道では、好きな調味料を教えてくださるんですよね」
四季凪が足を止めた。
「その話をしたのは、俺たちが記憶を持つ前の周回です。ナナさんにも、断片が残っている?」
「何かを考えた時、頭が痛んだり、記憶が飛んだ気がしたりしませんか」
「それは、繰り返す前に頭へ流れ込む声のことですか?」
口にしたナナ自身が、しまったという顔をした。
「今、はっきり『繰り返す前』と言いましたね」
「一人で抱えようとしていることがあるんじゃないですか」
「知らない方がいいことも、あるかもしれないでしょう」
「知らない方がいいことを知りすぎたのが、俺たちです。大抵のことは大丈夫ですよ」
四季凪は、ナナと同じ高さへ視線を合わせた。
「俺たちは請負人です。あなたが困っているなら、手伝えます。セラフは頭が切れるし、俺も動ける」
「逆では?」
「どちらでもいいでしょう。二人で力になります」
ナナは長いあいだ黙った。やがて荷紐を握る手から力を抜く。
「ごめんなさい。私、本当は繰り返していることを分かっています」
「やっぱりそうだった」
「みんなで繰り返してこそ、仲良しというものです」
「仲良しの条件にしないでください」
四季凪とセラフが覚えているのは五、六周ほど。ナナは、百回を越えたところで数えることをやめていた。
「ここ数回で、急にお二人が記憶を持つようになりました。それまでは、毎回初対面からやり直していて」
「百回以上、付き合ってくれてたんですね。申し訳ない」
「違うんです。巻き込んだのは私のせいかもしれません」
ナナは、これまで言えずにいたことを一息に吐き出した。
何でもないところで転ぶ。出かければ雨になる。きょうだいたちにできることも、自分だけできない。今日は珍しく晴れ、ついている日だから、きっといいことが起きると思った。
「祠で、本当の友達がほしいと願って。それが原因なら、お二人を百回以上巻き込んだのは私です。友達になってほしいなんて言う資格もありません」
セラフは首を横に振った。
「願ったことまで謝らなくていい。俺たちは、自分で一緒に行くと決めたんだから」
「原因だと決まったわけでもない。俺たちが単に気づくのが遅かっただけかもしれません」
「調味料ランキングを百回聞かせたのかと思った」
「それは、二人が記憶を持ち始めた最近の周回で初めて出た話です」
「そこから変だったんだ。話の引き出しが増えたと思っていました」
ナナの顔に、わずかな笑みが戻る。
「もう一つ、考えていることがあります。お二人が最初の周回で覚えているのは、どこまでですか?」
「山頂で昼を食べて、下山しようとしたところまで。バスへ乗った後は覚えていません」
「私は帰りのバスの中まで覚えています。大きなブレーキ音がして、次に気づいたら祠の前でした」
洞窟のヘッドライト。黒い箱の救助要請。周回ごとに変わる身体の痛み。すべてが同じ事故へ繋がっていく。
「箱の中から、三人が車内にいると聞こえた。つまり俺たちは、帰りのバスで事故に遭う」
「痛みは、その事故で負う傷の予告なのかもしれない」
「今までも、誰か一人か二人だけ、どこも痛くない時はありました。でも三人全員が無傷の世界は、一度もありません」
ナナは自分の意思で瞬きをし、反復を起こすことができた。異変が現れるたび、未知のものから二人を遠ざけようと、早く周回を戻してきたのだという。
「今までになかったことが起きるなら、何かが変わろうとしている。先へ進む機会かもしれない」
「私は逆に、世界が限界へ近づいているのだと思います。現実との境界が曖昧になって、異変が流れ込んでいる」
百回を越えた感覚が告げる残りの反復は、あと四回ほどだった。
「よく話してくれました。その情報は大事にしないと」
「せっかく、三人とも気づけたからね」
「巻き込んでしまって、本当にすみません」
「まだナナさんが原因だとは分かっていません。謝るのは、帰ってから原因が分かって、それでも必要だった時でいい」
三人は祠へ戻り、札や戸を調べた。これまでの周回でも何度も確かめたというが、古い札以外に新しい手掛かりはない。
「俺たち全員にとって、ここがセーブ地点なんですね」
「残りの回数が少ないなら、次は三人で条件を決めましょう。どこまでなら進み、どこで帰るか」
「誰か一人だけ重傷のまま帰る答えも、選びたくない」
ナナは、今度こそ二人から目を逸らさずに頷いた。
第五章動画で見る#
祠を調べても、洞窟を探しても、確実な出口は見つからなかった。祠そのものに強い悪意があるとも思えず、旅全体のどこかに引き金があるらしい。
残る選択は、痛みのない組み合わせを待って反復するか、今の傷を受け入れて現実へ戻るかだった。
「痛みは事故の予告だと思います。今、俺は右足が痛い。現実へ戻れば、そこに傷を負うかもしれない」
「無傷が揃っても保証はない、とも言われました」
「でも、ほかに安全を選ぶ方法はない。ここまで来たら腹を括りましょう」
セラフが言うと、四季凪も頷いた。
「俺の人生、そういうのばかりですよ」
「よくない慣れ方ですね」
「祠を調べても何もないなら、一度やってみましょう。変化しているということは、何かの手掛かりでもある」
「次の瞬きも、三人で選ぶ。それでいいですね?」
ナナは二人の返事を一人ずつ聞いた。
「やろう」
「俺も同意します」
「分かりました。繰り返します」
ナナが瞬きをする。
祠へ戻ると、四季凪の右足はまた痛んでいた。セラフにも別の痛みがあり、三人全員が無傷にはならない。
「また右足だ。一生ここが痛い気がしてきた」
「登山靴をちゃんと持ってくればよかったですね」
「装備の問題ではないと思うけど」
「まだ三回あります」
ナナの声に、二人はもう一度頷いた。
「最後の一回になる前に、もう一度やろう」
「ここで止まる理由もない。行きましょう」
ナナが再び瞬きをする。
木漏れ日と祠が戻る。三人は、ほとんど同時に自分の身体を確かめた。
「俺は、気分がいい。どこも痛くない」
「俺もです」
二人の視線がナナへ集まる。
「私も……痛くありません」
「本当に?」
「本当です。何百回も繰り返して、初めて三人全員、どこも痛くない」
ナナの声が震えた。
「やった。よかった」
「ナナさんに苦労をかけましたね。俺たちが何も気づかず、同じ話ばかりして」
「体力ばかりで、頭を使わなかったからな」
「そんなことありません。本当に、お二人に何もなくてよかった」
「ナナさんこそ。よくここまで一人で耐えてくれたね」
「まったく、その通りです」
喜んでいる間にも、景色の輪郭はかすかに揺れた。三人が無傷でも、閉じた世界の時間が尽きかけていることは変わらない。
「ここから出られますか?」
「私が『終わろう』と強く思えば、きっと出られます。ただ、痛みと事故の関係は私の推測です。三人とも無傷でも、助からないかもしれません」
「その時は、その時だ。ここまで来たら仕方ない」
「大丈夫。みんなで帰ろう」
「先へ出てから、気になることは聞けばいい」
「はい。帰りましょう。みんなで」
ナナが最後の瞬きをする。
ブレーキ音が世界へ響き渡った。
気がつくと、三人は帰りのバスにいた。無茶な運転をする車を避け、バスが山道で横転する。ガラスが割れ、車内に炎と煙が上がった。遠くからサイレンの音が近づいてくる。
次に目を開けると、白い天井があった。
「見知らぬ天井だ」
「目が覚めましたか」
医師がベッドへ近づき、三人がバスの事故に遭ったことを説明した。
「思ったより元気かもしれない」
「本当に奇跡ですよ。あれほど大きな事故だったのに、ほとんど傷がない」
「筋トレしていてよかった」
「子どもの頃に受け身を習っていてよかった」
二人は、先に目覚めていたナナへ顔を向けた。
「ナナさん、大丈夫?」
「はい。お二人より先に目が覚めました。どこにも異常はありません」
「本当によかった」
検査のために数日は入院するが、それが済めば帰れる。医師がそう告げて病室を出ると、三人はようやく長い息を吐いた。
「壮絶だったなあ」
「ここへ戻れたということは、日常に帰れたんでしょうね」
「ナナさん、ついてるじゃないですか」
「これを『ついてる』と言っていいんでしょうか」
「とんでもない幸運ですよ。あの事故から三人とも無傷で帰ったんだから」
ナナは二人を見比べた。
「お二人が、すごく幸運だったからだと思います」
「その可能性もあるかな」
「でも、三人で生きて帰れた。ナナさんを含め、みんなが幸運だったんですよ」
「そういうことだね」
ナナは何度も頷き、ようやく肩から力を抜いた。
「では、無事に下山できたということで、改めて四季凪の好きな調味料トップ十を聞きましょう」
「ここからですか。では、第十位から」
「十位から全部聞けるんですね」
セラフは笑い、ナナへ問いかけた。
「少しは、心が軽くなりました?」
「はい。こんなに素敵なお友達が、二人もできましたから」
「俺たちのほかにも、気のいい仲間がいます。ぜひ会いに来てください」
「いつでも歓迎しますよ」
「私でよければ、ぜひ」
「住所は後で渡します。着くまでの手順が少し複雑なんですけど」
「方向音痴の私でも大丈夫でしょうか」
「その時こそ、何でも屋に依頼してください。今度の報酬は、どんぐり三つで」
「分かりました。今度こそ、きちんと持っていきます」
病室に笑い声が広がった。
ナナの願いは、同じ一日を百回繰り返した末に、ようやく一度きりの明日へ続いていた。