リプレイ小説『ロールシャッハ・シンドローム』#
原作シナリオ:ディズム『ロールシャッハシンドローム』
セッション:山神カルタ/雪城眞尋「#ゆきやまシャッハ」
動画:https://www.youtube.com/watch?v=omlCoaZE440
これから観測される結末は、いまだ確定していない。
けれどそれは、避けようのない厄難でもある。
願わくは、閉じて開いたその瞼に映る世界が、鮮やかであらんことを。
登場人物#
山神カルタ
山を生活の場とする烏天狗。険しい道も軽々と進むが、空を飛ぶ前には「よし」と気持ちを整える必要があるらしい。眞尋を山へ誘った本人で、冗談を言いながらも、いざとなれば背負って帰るつもりでいる。
雪城眞尋
カルタに誘われ、バレンタインの贈り物として山の景色を受け取りに来た友人。好奇心が強く、祠や洞窟を見れば確かめずにはいられない。反復する世界では、カルタに真実を伏せたまま、彼女を無傷で帰そうと試み続けている。
第一章#
古いバスのエンジンが低く唸り、床から伝わる振動が足裏をくすぐっていた。
窓の外を、杉の幹が規則正しく流れていく。カーブへ差しかかるたび、吊り革と二人の身体が同じ方向へ傾いた。運転手のほかに乗客はいない。山深くなるほど車内へ落ちる光は薄くなり、会話の声だけが空席のあいだを行き来した。
やがてバスは、山頂に近い小さな停留所へ着いた。時刻表に並ぶ数字はまばらで、次の便は二時間後だった。
眞尋は座席から立ち、長く息を吐いた。
「いやあ、ようやく着いた。やっぱり山は遠いわ」
カルタは荷物を肩へ掛けながら笑う。
「長かったよね。でも、ここはまだ中腹だから。山頂までは歩かなきゃいけないよ」
「大丈夫。任せてくださいよ」
「最近、胃腸炎になったって言ってなかった?」
「もう治しました。山登りのために、頑張って」
カルタは疑うように眞尋の顔を見たが、血色は悪くない。ひとまず小さくうなずいた。
「じゃあ、頑張ろうか」
バスを降りると、若葉の匂いを含んだ冷たい風が二人の頬を撫でた。陽の当たる舗装路には春の熱が残っているのに、一歩木陰へ入れば空気は別物だった。
参道は最初こそ緩やかだったが、やがて高さの不揃いな石段へ変わった。山で暮らすカルタは軽やかに上がり、眞尋も遅れまいとその背を追う。
「カルタって、毎日こんなふうに山を登ってるの?」
「まあ、それなりには運動してるよ」
眞尋はカルタの背にある翼へ目を向けた。
「でも、烏天狗なら登らずに飛ぶんじゃないの?」
「飛ぶほうが大変なんだよ。飛ぶ前には、こう――よし、飛ぶか、っていう一息がいるの」
カルタは足を止め、腰を落として翼をわずかに開いてみせた。
「歩くなら、すたすた行ける。でも飛ぶ時は、毎回これが必要」
「思ってたのと違う。もっと、すいすい飛ぶのかと思ってた」
「そういう人もいるかもしれないけど、私は心の準備がいるんだよ」
眞尋が可笑しそうに笑う。その声につられ、カルタも肩の力を抜いた。
「もし本当に歩けなくなったら、背負ってよ」
「その時は、私が運ぶよ。翼でね」
「じゃあ最初から運んでほしいんだけど」
「駄目。登るにつれて景色が少しずつ変わるのがいいんだから」
「なるほど。じゃあ、本当に駄目になった時だけお願いします」
「任せて」
木々のあいだから差す光が、歩くたび二人の肩を行き来した。眞尋の息は少しずつ深くなっていたが、足取りはまだ確かだった。
しばらく登ると、木々が円く退き、小さな空地が現れた。
中央には、苔むした台座へ沈むように古い祠が建っている。その背後には太い御神木が立ち、枝葉が空地を覆っていた。さっきまで近くで鳴いていた鳥の声も、そこだけ一段遠い。
「すごい。祠がある」
「うちの山にはないけど、こういう山にはあるものなのかもね。何かを祀ってるんだろうな」
祠の戸は、指一本ほど開いていた。眞尋が身を屈め、暗い隙間へ顔を近づける。
「中、見てみる?」
カルタはすぐに眉を寄せた。
「こういうのは、簡単に触らないほうがいいよ」
「でも、最初から開いてる。閉めてあげたほうがよくない?」
「『すずめの戸締まり』みたいに言わないでよ」
眞尋は戸へ触れず、隙間から目を凝らした。暗がりの奥に、古い札らしきものが貼られている。
「お札がある」
「だから嫌なんだよ。もう離れよう」
「見えただけ。取ってないし、戸にも触ってないから」
眞尋の好奇心に呆れながらも、カルタも隣へしゃがんだ。札はひどく傷み、墨の跡は残っているが、文字として読むことはできない。
「確かに、禍々しい感じはしないね。ただの古い札みたい」
「でしょう?」
「でも、何が起きても今日は守るけど、その先までは保証しないからね」
「烏天狗なんだから、ずっと守ってくれてもいいじゃん」
「自己責任です」
言葉とは裏腹に、カルタは眞尋と祠のあいだへ半歩だけ身体を入れていた。
眞尋はその立ち位置に気づき、わざと祠へもう一歩近づくふりをした。カルタの手がすぐに肩を掴む。
「ほら。やっぱり守ってくれるじゃん」
「今日はね。今日だけは、私が誘った責任があるから」
「その先は自分で何とかしろって?」
「触るなって言ったのに触ったなら、そこから先は眞尋の責任でしょう」
「まだ触ってない。覗いただけ」
「さっき『触れたかも』みたいな顔をしなかった?」
「してない、してない。戸にも札にも触ってない」
眞尋は両手を見せ、無実を訴えた。カルタは疑わしそうにその指先を見たあと、祠の戸へ視線を戻す。
「開いてるなら、閉めるだけ閉めたほうがいいのかな」
「さっきは触らないほうがいいって言ってたのに」
「開けたままにするのも気になるでしょう」
「じゃあカルタが閉めてよ。山のことは山に住んでる人へ任せる」
「都合のいい時だけ山の住人扱いするよね」
結局、二人は戸へ触れる前に、まず祠へ詫びることにした。何を祀っているのか分からない場所だからこそ、礼を尽くすほうがよい。カルタの慎重さに、眞尋も今度は素直に従った。
せっかく祠の前で休ませてもらったのだからと、二人は手を合わせることにした。
カルタは荷物から、おにぎりを二つ取り出す。一つは梅干し、もう一つはおかかだった。
「途中で食べようと思って持ってきたんだけど、一個お供えしようか」
「そうしたら、カルタが食べる分がなくならない?」
「残りを半分ずつ食べればいいよ」
「よかった。それなら半分こしよう」
二人はおかかのおにぎりを祠の前へ置いた。狐ならお揚げではないか、と眞尋は首をひねったが、カルタは「おかかも好きそうだから」と押し切った。
カルタは柏手を打ち、目を閉じる。
「この人が悪いものに祟られませんように。私たちが無事に山頂まで行って、怪我なく帰れますように」
その隣で、眞尋も手を合わせた。
「雪城と山神で、もう一回、歌ってみたのコラボが出ますように」
カルタが片目を開ける。
「個人的な願いだね」
「カルタが二人の安全を願ってくれたから、私は別のことを願おうと思って」
「じゃあ、神様に頼んでおこうか」
二人はもう一度、静かに頭を下げた。
顔を上げた眞尋は、供えたおにぎりを名残惜しそうに見た。
「梅干しとおかかなら、どっちを供えるのが正解だったんだろう」
「祠って狐のイメージがあるから、おかかにしたんだけど」
「狐なら、お揚げじゃない?」
「あれ。狐って、おかかも好きじゃなかった?」
「聞いたことないなあ。鰹が好きなのは猫じゃない?」
カルタは少し考え、それでも祠の前のおにぎりを動かさなかった。
「神様なら、好き嫌いなく食べてくれるよ。梅干しより、おかかのほうが万人受けしそうだし」
「神様を万人に数えていいの?」
「細かいことはいいの。大事なのは気持ちだから」
二人は自分たちへ言い聞かせるようにうなずいた。おかかと神様の関係について新しい知識は得られなかったが、祠の前に漂っていた緊張だけは少し和らいだ。
立ち上がる時、眞尋は膝へ手をついた。
「ちょっと疲れたかも」
「さっき、全然大丈夫って言ってたよね」
「人間はか弱いんです」
「仕方ないなあ。少し休んでから行こう。怪我をしたら運ぶけど、怪我をしないのが一番だから」
「時々、怪我をする前提で話すの、怖いんだけど」
「念のためだよ」
第二章#
祠を離れて参道を進むと、右手の岩壁に大きな裂け目が現れた。塗装前のトンネルを思わせるほど広い入口から、湿った冷気が流れ出している。
「すごい。こんな自然の洞窟、初めて見た」
眞尋はすぐに入口へ近づいた。
「中を覗いてみようかな」
「またそうやって厄介事に首を突っ込もうとする」
「だって、向こう側へ繋がってるかもしれないし、お宝があるかもしれない」
「お宝に興味がある人だった?」
「得られる富は、すべて得たい」
カルタは呆れた顔をしたものの、自分も奥を覗き込んだ。
「じゃあ、一緒に見るだけね」
二人は足元を確かめながら暗がりへ入った。数歩で光は弱まり、靴が小石を転がす音だけが反響する。だが洞窟は意外なほど浅く、すぐに行き止まりになった。
「トンネルじゃない。ただの穴だ」
「金属探知機でもなきゃ、お宝が埋まっていても分からないね」
「持ってきてないよ、そんなもの」
何もないと分かれば、怖さより可笑しさが勝った。二人は笑いながら外へ戻り、山頂を目指した。
洞窟を出た眞尋は、もう一度だけ暗がりを振り返った。
「本当に何もなかったね」
「だから言ったでしょう。ただの洞窟だって」
「でも、見なかったら気になったままだった」
「そうやって、毎回確かめに行くんだろうね」
「カルタも一緒に入ったじゃん」
「金が埋まってるかもしれないって言うから」
「得られる富は、すべて得たい烏天狗だった?」
「眞尋を一人で行かせるよりましだと思っただけ」
カルタは先へ歩き出した。眞尋はその背中を見て、口元だけで笑う。厄介事へ首を突っ込むなと言いながら、結局は一緒に来る。その矛盾が、何より頼もしかった。
最後の坂を登りきると、視界が一気に開けた。
幾重にも重なる山並みの向こうで町が霞んでいる。風が草の穂を一方向へ伏せ、汗ばんだ額を冷やした。眞尋は息を整えながら、長いあいだ景色を見つめた。
「綺麗だね」
カルタは得意そうに胸を張る。
「でしょう? 普段インターネットばっかり見てると、自然の緑のよさを忘れちゃうから」
「俺たちが普段見る緑って、グリーンバックだもんね」
「空気も綺麗だし、目もよくなりそう」
「毎日こんな山で過ごしてるんだ」
「いいでしょう。これを眞尋に味わってもらいたかったの」
眞尋は、今度は景色ではなくカルタを見た。
「今日、誘ってくれてありがとう」
「バレンタインだからね。これが私からのプレゼント」
「この山に対して、私は何を返せばいいんだ」
「それは眞尋に任せる。ホワイトデー、待ってるね」
二人は草の上へ腰を下ろし、残った梅干しのおにぎりを半分にした。酸味と塩気が、乾いた喉に心地よい。
「来年のバレンタインは、ここより高い山に登ろうよ」
「じゃあその頃には、雪山の歌ってみたコラボが出ていますように」
「五曲ぐらい出したいね」
「ずいぶん切実だなあ」
食事を終えた二人は帰りの時刻を確かめ、山を下った。
下山する前、眞尋は名残惜しそうに空を見上げた。
「都会にも緑はあるけど、ここまで一面にあることはないから、癒やされるね」
「いつでも吸いに来ていいよ、山の空気。私はいつだって山にいるから」
「次に来るのは一年後くらいかな」
「一年も空けるの?」
「じゃあ、来年のバレンタインに。またここより高い山へ」
「その頃には飛ぶ時の心の準備も、もっと短くなってるかもしれない」
「そこは毎日飛んでるうちに慣れないんだ」
「慣れない。飛ぶたびに『よし』が必要」
カルタは真面目な顔で言い切り、眞尋は声を上げて笑った。
「じゃあ、ホワイトデーは何を返そう。海の景色でも持ってくればいい?」
「この山と釣り合うものをお願いします」
「借りが大きすぎるなあ」
「山一個分だからね」
二人の冗談は、帰り道の長さを忘れさせた。祠も洞窟も木々の向こうへ消え、停留所が見えた時、眞尋は本当に一日が終わるのだと思っていた。
夕方のバスは暖かく、規則正しい振動が疲労を眠気へ変えていく。眞尋のまぶたが閉じる直前まで、その日は予定どおりの、穏やかな一日だった。
第三章#
次に目を開いた時、眞尋は祠の前に立っていた。
木漏れ日の角度も、御神木の影も、供える前のおにぎりも、最初にここへ来た時と同じだった。
「また来年のバレンタインに、ここより高い山へ行こうよ」
カルタが何気なく言う。
眞尋は返事をしかけ、息を止めた。
「今、何て言った?」
「来年は、もっと高い山へ行こうって」
「私たち、さっき山頂へ行って、帰りのバスに乗ったよね?」
カルタは戸惑った顔で首を傾げる。
「何を言ってるの。今から登るんだよ」
眞尋は祠とカルタを交互に見た。供えたはずのおにぎりは手元にあり、食べたはずの梅干しの味だけが舌に残っている。
「ここでおにぎりを供えて、山頂で半分ずつ食べた。覚えてない?」
「ごめん。本当に何を言ってるのか分からない」
その時、眞尋の右手に鋭い痛みが走った。反射的に手首を押さえる。
「痛っ」
「どうしたの?」
「急に右手が痛くなった。どこにもぶつけてないのに」
カルタは眞尋の手へ目を凝らした。腫れも痣もない。
「リュックが重かったのかな。無理なら荷物、持つよ」
「ありがとう。ひどくなったら頼む」
眞尋は右手を開いたり閉じたりした。動かせはするが、掌の奥に鈍い痛みが残っている。
「これ、右目じゃなくて右手が疼くタイプの中二病かな」
「中二病なら、もう少し格好いい言い方をするんじゃない?」
「封印されていた力が、山の霊気に反応して……」
「元気そうだから大丈夫だね」
「待って。冗談で痛みを訴えてるわけじゃないよ」
「分かってる。だから、無理そうならすぐ言って」
カルタは眞尋の右側へ回り、痛む手を誰かへぶつけないよう歩く位置を変えた。口調は軽くても、気遣いは足取りに表れていた。
眞尋は、夢を見たのだと自分へ言い聞かせた。そうしなければ、目の前のカルタだけが別の時間に取り残されていることになる。
「本当に、今から登るんだよね?」
「そうだよ。どうして何度も聞くの?」
「ごめん。夢で見たのかもしれない。この景色を何回か見てる気がしただけ」
カルタは眞尋の目を覗き込んだ。冗談を言っている時とは違い、焦点がわずかに定まっていない。
「頭も痛い? どこかでぶつけた?」
「頭は大丈夫。感覚がふわふわするっていうか、ずっと夢の中にいるみたい」
「山で暮らしてるから、別の山の記憶と混じったとか?」
「それはカルタのほうでしょう」
「そうだった」
眞尋は自分の言い間違いに気づき、ようやく少し笑った。
「とりあえず、山頂へ行ってみよう。そこまで行けば、私の勘違いか分かるかもしれない」
「無理そうなら、すぐに言ってね。荷物も持つから」
「分かった。ありがとう」
二人はもう一度、参道を歩き出した。
洞窟を見つけた時、カルタは初めて見るように目を輝かせた。
「こんな洞窟、山にはたまにあるよ」
そう言いながら、眞尋の胸には確信が生まれていた。入口の形も、足元の白い石も、さっきと同じだ。
ところが中へ入ると、前にはなかったものがあった。
割れたランプに火が灯り、車のヘッドライトだけが岩の上へ転がっている。二つの光は岩肌へ左右対称の黒い影を映していた。焦げた油の匂いが鼻を刺す。
「何か燃えてる」
カルタが翼を縮め、入口を振り返った。
「火が回ったら危ない。逃げ道がなくなるよ」
「まだ入口は近い。すぐ出られるよ」
眞尋は影を見上げた。揺れる輪郭が、巨大な生き物のように伸び縮みしている。
「ねえ、あの影、何に見える?」
「大きな人が四人くらい、こっちを見てるみたい」
「怖い答えだなあ。私は狐の目に見える」
「烏天狗にとって怖いものが、人間だからかもしれないね」
「どうだろう。でも、人によって全然違うんだね」
眞尋は、影を指でなぞるように説明した。
「ロールシャッハ・テストって知ってる? 紙へ落としたインクを二つ折りにして、左右対称にできた模様が何に見えるか答える検査」
「心理学のやつだっけ」
「そう。あの影も左右対称だから、思い出したんだ」
カルタは影へ目を戻した。炎が揺れるたび、四人に見えた輪郭が一つへ重なり、また分かれていく。
「眞尋には狐の目で、私には人間か。今いる場所や、自分が何を怖いと思ってるかで変わるのかな」
「そういうことを調べる検査なんだと思う。でも、私は専門家じゃないから、結果までは分からない」
「じゃあ、ただ答えを聞きたかっただけ?」
「人が同じものをどう見るか知るのが好きなんだよ。自分にはない見え方を聞けるから」
「私が人間を怖いと思ってるって分かったのも、眞尋には面白い?」
「面白がるというより、カルタのことを一つ知れたのが嬉しい」
その答えに、カルタは一瞬だけ目を伏せた。照れを隠すように、翼の先を軽く払う。
「じゃあ、私も眞尋のことを一つ知った。狐のおかか好きを信じてる人」
「そこを覚えるの?」
その瞬間、声ではない言葉が二人の頭蓋の内側へ落ちてきた。
――時間が来たら、影は実体を取り戻す。
誰が発したのか確かめる間もない。眞尋が瞬きをすると、世界が裏返った。
また、祠の前だった。
何度目かの参道で、カルタの左足が痛み始めた。傷はない。それでも、体重をかけるたび、まだ起きていない事故を骨だけが覚えているように疼いた。
二人は歩調を落とした。沈黙が長くなるのを嫌い、眞尋が口を開く。
「ちょっとした思考実験をしてもいい?」
「面白い話?」
「面白いかどうかは、カルタ次第かな」
眞尋は、病院のベッドで目覚めた人の話を始めた。
「隣のベッドに、世界的に有名なバイオリン奏者が寝ている。あなたとその人はチューブで繋がれていて、九か月そのままでいれば、奏者は必ず助かる」
カルタは痛む足を庇いながら、黙って続きを待った。
「でも九か月間、あなたの自由はなくなる。チューブを外せば自由になれるけど、その人は死ぬ。カルタならどうする?」
「世界的に有名なら、その人を待ってる人がたくさんいるんだよね」
「たぶんね」
「じゃあ、繋がってる。仕事はできなくても、生存報告くらいはできるでしょう?」
「病院だから、普段どおりの活動は難しいかも」
「九か月だけ休むって伝えるよ。急にその人がいなくなったら、その人を生きがいにしてる誰かも悲しむから」
眞尋は少し驚いて、カルタの横顔を見た。
「有名人じゃなくて、その辺にいる知らない人でも?」
「その人にも、待ってる人がいるかもしれない。私は長生きだし、烏天狗の九か月なんて、あっという間だから」
「家族や大事な友達なら?」
「もちろん助けるよ」
「カルタは優しい烏天狗だね」
「人のことを知ろうとする眞尋も、いいことをしてると思うよ。興味がなきゃ、こんな問いをいろんな人に聞こうとは思わないでしょう?」
「本当? 普通に嬉しいんだけど」
眞尋は、問いの条件をさらに変えた。
「もし、その人が世界的に有名じゃなくて、本当に何者でもない知らない人だったら?」
「その人を待ってる家族や友達はいるかもしれないでしょう」
「誰にも責められないとしても?」
「たぶん、自分で自分を責める。助けられたのに外したって、ずっと考えると思う」
「じゃあ、九か月より長かったら?」
「どれくらい?」
「一年とか、数年とか」
カルタはすぐには答えず、木漏れ日を見上げた。
「数年なら迷う。でも九か月なら、私の時間の感覚では短い。条件によって答えが変わると思う」
「ちゃんと自分の寿命から考えてるんだね」
「人間と同じ九か月でも、感じる重さは違うでしょう?」
「確かに。私なら、仕事を休むことまで先に考えるな」
「生存報告だけでもできるなら、待ってくれる人は安心するよ」
眞尋は、カルタの答えを一つずつ確かめるように聞いた。後になれば、この問いはただの暇つぶしではなく、誰かのために自分の自由を差し出せるかという、二人の選択を先取りしていたようにも思えた。
二人が笑い合った直後、また思念が流れ込んだ。
――痛みは予感だ。解決の方法は一つしかない。
眞尋の右手に、再び痛みが走る。
第四章#
祠へ戻される回数が増えるほど、眞尋には世界の継ぎ目が見えるようになった。
同じ場所に落ちた枯れ枝。同じ向きへ揺れる草。同じ角度で差し込む光。変わらない景色とは反対に、二人の身体を襲う痛みだけが場所を変えていく。
ある反復で、参道の中央に黒い箱が現れた。
艶も継ぎ目もなく、木漏れ日さえ吸い込む正方形。景色へ置かれた物というより、そこだけ空間を四角く切り取った穴のようだった。
「あんなもの、前にはなかった」
「気味が悪いね。ほかに人もいないのに」
カルタは箱の左側を、眞尋は右側を通ろうとした。
「離れて通るの?」
「手が届く距離に二人で固まるよりいいかと思って」
「絶対に離れないでよ」
二人が箱の横へ差しかかると、内側から雑音が走った。
『一名は軽傷。二名、まだ車内に取り残されている模様。至急、応援を求む』
切迫した声は、山の静けさへ属していなかった。未来の救助無線なのか、すでに起きた事故の残響なのか。眞尋が足を止める。
続いて、意味だけが頭へ流れ込んだ。
――ブレーキ音のあと、世界は収束する。無傷が揃ったとしても、結末は保証されない。
眞尋が瞬きをし、世界はまた祠の前へ戻った。
戻った直後、二人は同時に背後を振り返った。黒い箱はない。鳥の声も風の匂いも、何事もなかったように最初へ戻っている。
「今の、聞こえたよね?」
「車内に取り残されてるって言ってた。私たちが乗ってたバスのことかな」
「一名は軽傷、二名が車内。運転手と私たち二人なら、人数が合う」
カルタは痛みの残る手を握った。
「思念は『無傷が揃っても保証はない』って言った。痛くない回で出れば絶対助かる、とは言ってないんだね」
「そう。だから私は、ずっと出る時を決められなかった」
「今までにも、あの箱は出た?」
眞尋は首を横へ振る。
「初めて。洞窟の火も、影の思念も、今までにはなかった」
新しい手掛かりが増えることは、解決へ近づくこととは限らない。それは同時に、世界が同じ形を保てなくなっている証拠でもあった。
カルタは箱があった場所を睨んだ。そこには今、踏み固められた土と木漏れ日しかない。
「でも一つ分かった。私たちは、帰りのバスで事故に遭う」
「そう考えるのが一番自然だと思う」
「身体の痛みは、その事故で怪我する場所」
「思念の『痛みは予感』とも繋がる」
「無傷になるまで繰り返して、二人を事故へ戻す。それが眞尋の考えだったんだね」
眞尋は答える代わりに、痛む手を胸元へ引き寄せた。その沈黙だけで、カルタには十分だった。
カルタは、眞尋の反応を注意深く見ていた。
「さっきも右手が痛いって言ってなかった?」
眞尋の表情が固まる。
「……覚えてるの?」
「何度か聞いた気がする。祠も洞窟も、何回も見てる気がするんだ」
眞尋はすぐに答えなかった。逃げ道を探すように御神木を見上げ、それから諦めたように息を吐く。
「気づかないほうがいいこともあると思ったんだよ」
「ループしてることに?」
眞尋は小さくうなずいた。
「最初は、山頂まで行って、おにぎりを半分にして、帰りのバスへ乗った。そこで大きなブレーキ音を聞いた。次に目を開けたら、この祠にいた」
カルタは口を挟まず、眞尋の言葉を待った。
「カルタは毎回、今から山へ登ると思ってた。私はそれを、何十回も、何百回も見てきた。五十回を越えた頃から、数えるのをやめた」
風が御神木の葉を裏返し、二人のあいだへ乾いた音を落とす。
「どうして言わなかったの?」
「カルタが気づかないうちに、私が解決できたら、そのほうが幸せだと思ったから。今までなかった火や黒い箱が現れたのは、カルタが記憶を取り戻し始めてからなんだ」
「じゃあ、私が気づいたせいで世界が壊れ始めた?」
「カルタのせいじゃない。世界そのものが、もう限界なんだと思う」
眞尋は左手を押さえた。今度の痛みはそこにあった。
「私が最後に覚えている現実の音は、バスのブレーキ音だけ。ここは、事故の直前に祠へ願ったことでできた、避難場所みたいな世界なのかもしれない」
「身体が痛むのは?」
「現実へ戻った時に負う傷の予告だと思う。だから、どちらも痛くない回を待ってた」
カルタは、眞尋が重ねてきた時間を想像した。毎回同じ冗談を聞き、同じおにぎりを分け、同じ相手に忘れられる。眞尋の明るさの底にある疲労が、ようやく見えた。
「一人で何とかしようとしてたんだ」
「気づかないままのほうがよかったと思ってた。結局、私はまだ成功できてないけどね」
「ごめん。何も知らずに、ずっとへらへらしてた」
「それでよかったんだよ」
「でも今は、二人で考えられる。一人より二人でしょう?」
眞尋はしばらく黙り、それから初めて、少しだけ安堵した顔をした。
「カルタが記憶を持ち始めたのは、たぶん五回くらい前から」
「私は五回で気が遠くなりそうなのに、眞尋は何百回も?」
「最初のうちは、毎回説明しようとしたこともあった。でも信じてもらうまでに時間を使って、痛みの条件を調べられなくなる」
「だから知らないふりをした」
「それに、毎回初めてみたいに笑うカルタを見てたら、真実を言って怖がらせたくなくなった」
カルタは何かを言おうとして、やめた。自分が忘れているあいだも、眞尋だけが別れを知り続けていた。その重さを、簡単な謝罪へ押し込めたくなかった。
「最初の一回、私たちは普通に帰れたんだよね?」
「バスへ乗るところまでは。最後に聞こえたのがブレーキ音だった」
「じゃあ、事故に遭ったあと、ここへ来た」
「そう考えるのが自然だと思う」
「祠で『怪我なく帰れますように』って願ったから?」
「もしかしたら。願いを叶えるために、事故の直前へ戻る場所を作ったのかもしれない」
「親切なのか、意地悪なのか分からない神様だね」
「少なくとも、何百回も機会をくれた」
「その機会を一人で使わせて、ごめん」
「だから、カルタが謝ることじゃないって」
眞尋は笑ったが、目の下には隠しきれない疲れがあった。カルタは今度こそ、その表情から目を逸らさなかった。
「ここって、現実とは別の世界なのかな」
「私は、事故の直前から枝分かれした世界だと思ってる。パラレルワールドみたいなもの」
「私たちが山へ来る前の現実も、どこかに続いてる?」
「続いてるのか、事故へ収束するまで止まってるのかは分からない」
「ここを出たら、事故がなかったことになるわけじゃないんだ」
「たぶんね。ブレーキ音の続きへ戻る」
カルタは翼を畳み、自分の身体を抱くように腕を回した。
「気づかないまま戻ったほうが幸せだった、って眞尋は思った?」
「事故に遭うって知ったら怖いでしょう。だから何も知らないカルタを無傷にして、そのまま帰したかった」
「でも眞尋は、全部知ったまま戻るつもりだった」
「私が始めたことだから」
「それは違うよ。祠へ願ったのも、バスへ乗ったのも二人。戻る怖さも二人で持つ」
眞尋の唇がわずかに震えた。何百回も求めていたのは無傷の身体だけではなく、その言葉だったのかもしれない。
第五章#
眞尋には、この世界から出る時を選ぶことができた。
けれど反復できるのは、もう五、六回ほどしか残っていない。世界が尽きたあと何が起きるかは、眞尋にも分からなかった。無傷の回で出ても、現実で必ず助かるという保証はない。全身が痛む回で出ても、生き残る可能性はある。
「何の保証もないんだね」
「そう。でも、あと数回は試せる」
カルタは迷わず眞尋を見た。
「可能性に賭けよう。二人とも、どこも痛くない回まで」
「本当にいい?」
「眞尋は私のために何百回も続けたんでしょう。今度は二人で決めるよ」
「私が『もう出よう』と思えば、その瞬間に現実へ戻る。それまでは、たぶん瞬きのたびにここへ戻れる」
「じゃあ、決定権は眞尋にあるんだ」
「形の上ではね。でも、もう一人で決めたくない」
カルタは眞尋の前へ手を差し出した。
「なら、毎回二人で確認しよう。痛む場所と、まだ続けるかどうか」
「痛みが全身だったら?」
「続ける。頭でも続ける。残りがある限りは」
「世界が壊れそうでも?」
「壊れる前に、二人で選ぶ。一人で残るよりはいい」
眞尋は差し出された手を握った。反復のたびに忘れられてきた約束が、初めて次の世界へ持ち越される気がした。
眞尋が瞬きをする。
世界が反転し、次の祠が現れた。今度はカルタの右足と、眞尋の左足が痛んだ。
「痛い足同士を結んで、二人三脚する?」
「それ、二人とも歩けないと思う」
恐怖の中でも冗談を言えることが、二人の呼吸を整えた。
次の反復では、カルタの頭が割れるように痛み、眞尋は無傷だった。
「私が出る」
「駄目。まだ繰り返せる。手ならともかく、頭は怖いよ」
眞尋はもう一度、瞬きをした。
暗転。木漏れ日。祠。二人は同時に、指先から足の裏まで身体を確かめた。
どこにも痛みがない。
「今しかないかもしれない」
「一度出たら、もう戻れないよ」
「ここに残っても、この世界が壊れるだけでしょう。現実を受け入れよう」
カルタは翼を大きく開き、何度か腕を振った。痛みはない。眞尋も手足を動かし、深く息を吸う。
「じゃあ、出よう」
「一緒にね」
眞尋が最後の瞬きをした。
目を開くと、二人は帰りのバスにいた。
エンジンの振動。夕方の光。窓の外から迫る対向車。
運転手が急ハンドルを切り、耳を裂くブレーキ音が響いた。車体が道を外れ、世界が横倒しになる。身体が宙へ投げ出され、窓ガラスが砕け、ねじれた金属が悲鳴を上げた。
火と煙の匂いが車内を満たす。遠くから近づくサイレンを聞きながら、二人の意識は暗闇へ沈んだ。
次にカルタが見たものは、病室の白い天井だった。
消毒薬の匂い。カーテン越しの人の気配。規則正しい機械音。カルタは指を動かし、腕を持ち上げ、足へ力を入れた。どこにも強い痛みはない。
隣のベッドから、布の擦れる音がした。
「カルタ、大丈夫?」
眞尋の声だった。
カルタは勢いよく顔を向ける。
「大丈夫。眞尋は?」
「私も、どこも痛くないみたい」
二人は顔を見合わせた。大きな事故だったはずなのに、身体にはほとんど傷がない。
「無傷で帰ってこられたんだ」
「眞尋が何回も繰り返してくれたこと、無駄じゃなかったね」
「ありがとう、眞尋」
「無駄なわけないよ。元気なカルタの声を聞けて、やっと安心した」
カルタはシーツの上で拳を握り、ゆっくり開いた。確かな感覚が、ここが現実だと教えてくれる。
「今度は落ち着いた場所で、二人揃っておにぎりを二個食べよう」
「ちゃんとした場所で、ちゃんとした世界でね」
窓の外には、何事もなかったように夕暮れが続いている。
「おかえり、でいいのかな」
「ただいま、でもいいんじゃない?」
カルタは笑った。
閉じて、開いた瞼の先に、二人の続きが残っていた。